京都「町家小路」写真紀行   京都「町家小路」を写真と文で紹介

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智恵光院通 豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り   京都市上京区
智恵光院通・智恵光院
 豊臣秀吉の京都の町の大改造によって開かれた通りで、聚楽第があったところでもある。聚楽第は、智恵光院通のほかにも多くの通に広がっていたが、その遺構はほとんど残っていないそうである。
 通りの名になっている智恵光院は、通りのほぼ中ほどにある。
智恵光院通・二条児童公園 智恵光院通・平安京内酒殿跡発見の井戸と木簡
 二条児童公園から出発し、一路北上する。二条児童公園と命名されているだけあって子供たちやその親たちが大勢楽しんでいる。公園の一角に「鵺(ぬえ)池伝説」の解説がある。
鵺池伝説
 二条公園の北側に鵺池という小さな池があった。傍らには不鮮明だが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、そこには新しく復元された碑が建っている。
 平安時代、二条公園を含む一帯は、内裏や大極殿を正殿とする朝堂院、太政官などがあった。「平家物語」巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺であったといい、そのときに血の着いた鏃(やじり)を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられている。
 二条公園を過ぎ、下立売通を渡ると右手に「平安京内酒殿跡発見の井戸と木簡」の説明文が立っている。
平安京内酒殿跡発見の井戸と木簡
 平安宮は平安時代に政治や儀式などが行われた所で、東西378丈(約1128m)、南北460丈(約1373m)の広大な地域に宮殿や役所が建ち並び、中央部には大極殿(現千本丸太町付近)が、北東部には天皇の居住した内裏があった。現在地点は内裏の東側にあたる。
 平成8年(1996)5月、この場所で平安宮跡初の井戸を発見した。井戸は一辺5.5m、深さ7mの穴を掘り、中央に2.1m四方の木枠を組み上げた巨大なものです。この井戸から文字の書かれた木の札が一枚出土した。これは木簡と呼ばれるもので、役所に飯を請求した経緯が記されており、弘仁元年(810)に井戸が造られたこと、ここに内酒殿という内裏に納める酒を醸造した役所があったこともわかった。
智恵光院通・松林寺 智恵光院通・松林寺
 平安京内酒殿跡発見の井戸と木簡」の説明文を読み終えて、通の反対側(左手)にある松林寺を訪ねる。寺が一段低くなっている。墓地が更に低い。通りがかりの人に伺うと、この地は昔堀だったということである。
智恵光院 智恵光院
智恵光院
 当院は称念山平等寺と号する浄土宗寺院である。永仁元年(1293)、時の関白鷹司兼平が、一条の北にある花園を献じて自家の菩提寺院として創建し、如一国師を開山に迎えた。これが浄土宗寺院建立の最初である。のち、聞益上人によって院内に要終院、芳秀院、智福院、吟松院の四院を建立し京都七光院の一つとして隆盛を極めたが、天明8年(1788)の大火で被災し、その後再建されたが第2次世界大戦中、強制疎開により塔頭四院も廃寺とされ縮小された。
 現在の建物は天明8年以降の再建で、本堂には快慶作と伝わる阿弥陀如来像、地蔵堂には小野篁(たかむら)作と伝わる六臂地蔵尊が安置され、他に弁財天、稲荷神などの小堂がある。
智恵光院通 智恵光院通
智恵光院通 智恵光院通
 通り沿いの軒先に、模型というか飾りというかちょっとした小さな世界があるのに気づく。作者の世界観を感じて撮る。
智恵光院通・首途八幡宮 智恵光院通・首途八幡宮
 今出川通を越すと左手に首途(かどで)八幡宮がある。
首途八幡宮
 大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、もとの名を「内野八幡宮」という。宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(応神天皇)・比淘蜷_・息長帯姫命(神宮皇后)を祀る。
 かつてこの地に金売吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる。「首途」とは、「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
 この故事により、特に旅立ち、旅行安全の信仰えお集める。
智恵光院通・本隆寺 智恵光院通・本隆寺
 首途八幡宮の北側(五辻通の北側)にあるのが法華宗(真門流)の総本山でる本隆寺である。
本隆寺
 当山は慧光山本隆寺といい、長享2年(1488)4月28日、開祖常不軽院日真大和尚が京都四条大宮西に堂宇を建立し、「慧光無量山本妙興隆寺」と公称したに始まる。天文5年(1536)に起こった「天文の法乱」によって堂宇を失い、泉州堺に避難し留まること6年、天文11年(1542)の春、旧跡は幕府の収まるところとなり、現在地に再建。この間、京都洛中を焼き尽くした承応3年(1654)の大火による類焼によって堂宇ことごとく焼失。時の住職第十世日遵上人は、2年の歳月を経て明暦3年(1657)堂宇を再建。
 その後、享保15年(1730)、天明8年(1788)の2度にわたる洛中を焼き尽くす大火に見舞われたが、当山に祀る鬼子母神の加護により奇跡的に難を免れ今日に至っている。爾来、当山の鬼子母神は『火伏せの鬼子母神』と称され信仰を集めている。この歴史的背景をもつ本堂・祖師堂の文化的価値は高く昭和61年(1986)に京都府文化財に指定された。
紋屋図子 紋屋図子
 五辻通と上立売通の間に紋屋図子がある。図子とは袋小路の路地の突き当たりを貫通させ、通路として開放したものだそうだが、長さは100mぐらいあるのだろうか。東西に抜ける小路である。智恵光院通を挟んで左側(西側)が本隆寺、右側(東側)に紋屋図子が位置している。
智恵光院通・雨宝院 智恵光院通・雨宝院「染殿井」
 本隆寺から五辻通を挟んで北側に雨宝院がある。
雨宝院>(西陣聖天宮)
 北向山と号する古義真言宗の寺院である。寺伝によれば、弘仁12年(821)嵯峨天皇の病平癒を祈願し、弘法大師が大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まりで、境内は千本五辻まであったとされる。
 応仁の乱(1467〜77)により堂宇荒廃したため、天正年間(1573〜92)に雨宝院のみが再建された。観音堂に安置される千手観音立像は、藤原時代初期の作風を示し、重要文化財に指定されている。大師堂に祀られる本尊は、阿吽(あうん)あせかき弘法大師像として伝えられている。
 境内東南の井戸は「染殿井」と呼ばれ、染物に用いるとよく染まり、夏の旱魃(かんばつ)時においても涸れることがないという。
 また、本堂前には「歓喜桜」という、御室の桜と同種の八重桜があり、開花時には根元から花をつける。隣の赤松は「時雨の松」と呼ばれ、久邇宮朝彦親王が、当院参詣の折、にわか雨を樹の下で凌がれたという話が残る。
智恵光院通 智恵光院通
智恵光院通・常磐井 智恵光院通・大徳寺
 智恵光院通を更に北上する。畳屋、銭湯など懐かしい景観が続く。先に大徳寺が見えてくる。常磐御前(源義経の母)が用いたという常磐井(ときわい)を見に行く。水は涸れていたが、かつては名水と呼ばれていたようです。
 智恵光院通の散策も北大路通と出合い、大徳寺の門が正面に見える。ここで終わりとする。

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