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寺町通りは、平安京のほぼ東京極大路に当たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱によって衰退していたが、天正18年(1590)から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、道路が修復・再生された。主として、洛中に散在していた諸寺院が、この通りの東側に強制的に移転させられたので、「寺町」の名が付けられたが、西側には多くの商店が軒をつらねた。数珠屋、位牌屋、石塔屋、仏師、書店、筆屋、楽器屋、人形屋、紙表具屋、扇屋、白粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、多くの人々を誘った。
京都御所北側を東に進み、交差点を右折して寺町通に入る。南北道路なので南下する。しばらく歩いていくと犬が道路の真ん中を悠然と歩きながら進んでくる。車もほとんど入ってこない。京都は大都会だが、こんな田舎的な光景に見とれてしまう。犬が通りすぎないうちに急いでシャターを押す。 |
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静かな通りを進んでいくと左手に盧山寺(ろさんじ)が見えてくる。ここには紫式部の邸宅があったことがわかった。境内には紫式部の石碑がある。節分会の鬼の法楽と呼ばれる悪疫退散の行事が有名である。日本盧山と号する円浄宗の大本山であり、正式には盧山天台講寺という。この寺の真向かいに梨木神社がある。 |
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梨木神社は三条実萬とその子実美を祀る。境内にある「染井の井戸」は、京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)の一つで、水を求める人が続く。散策中の身にはありがたい。さっそくいただく。口中が爽やかになる。水を飲んで一休みする。 |
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梨木神社を出るとすぐ右手に清和院御門が現れる。門の手前にやや広いスペースがあり、ジョッギングを始める人から終わった人が10人程度固まっている。いずれも中年以降の方々だった。
<新島襄旧邸>京都市指定有形文化財
新島襄旧邸は、同志社の創立者新島襄の自邸として建設されたもので、明治11年(1878)に竣工したと伝える。また、設計は宣教医テーラーの助言のもとに新島自身が行ったといわれている。
建物は木造の2階建てで、北側に平家部分が付属する。外観はコロニアルスタイルを基本としているが、細部装飾がほとんどなく、真壁の白い壁面に配された茶褐色の木部が単純明快な美しさを見せている。 また、この建物はいわゆる洋風建築に属するものの、畳敷や箱階段などの伝統的手法も用いられている。日本人の設計により、日本人のために建てられた明治時代初期の洋風住宅として、さらに新島襄の住宅遺構として貴重である。 |
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丸太町通を渡って進むと行願寺(革堂)が左手に見える。行願寺は天台宗の寺院で、一般には革堂の名で親しまれている。寛弘元年(1004)に皮聖行円が創建したと伝え、中世には町堂として上京の中心となっていたが、その後寺地は寺町荒神口の南へ移り、現在地へは宝永5年(1708)の大火後に移ってきた。行円上人が常に皮の衣をまとい、人々から皮聖(かわひじり)とも呼ばれていたところから皮堂と呼ばれるようになったといわれている。
京都市役所横を進むと御池通りに出会う。そこを渡ると本能寺が現れる。織田信長が討たれた当時の本能寺ではないが、信長の墓などがある。当時の本能寺は四条西洞院にあったが、豊臣秀吉の京都大改造により現在地に移転している。 |
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本能寺あたりからアーケードの商店街・寺町専門店街になり、人の流れが急に多くなる。美術関係、古書店等々興味深い店が続く。季節の野菜なども店頭に並べられ、見ているだけで楽しい。紅提灯に飾られている矢田寺(矢田地蔵尊)は、アーケード街にあるが、ここだけは別世界という感じがする。錦小路(錦市場)の狭い通りの左右には店がずらりと立ち並び、お客さんで賑わっている。 |
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豊臣秀吉が、洛中の寺院をこの通りの東側に移転させたことから寺町通となった。寺町通の全てを歩いたわけではないが、過去と現代を融合させたような通りなのかなという感想を持って散策を終わる。 |