|
|
|
|
蛸薬師堂から名付けられた通りで、本能寺跡や南蛮寺跡など織田信長に由来する史跡がある。蛸薬師堂の近くにたこ焼き屋があったが、何か関係でもあるのでしょうか。単なるこじつけなのかそれとも深い関係があるのでしょうか? |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高瀬川に架かる蛸薬師橋から蛸薬師通に入り、西に向かう。橋のたもとに「土佐藩邸跡」の碑が立っている。
<此付近土佐藩邸跡」
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸があった。当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄3年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった。
土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
<土佐稲荷・岬神社>
社伝によれば、貞和4年(1348)に鴨川西寄りの中州の岬に祠を建てて祀られたのが始まりで、その後江戸初期になって、備前島町に建てられた土佐藩京屋敷内に遷座される折、倉稲魂命(くらいなたまのもこと)・石栄神の二座を祭神としたため、通称土佐稲荷・岬神社と称された。
当屋敷内の人々は勿論、幕末の志士坂本龍馬等もこの神社をあがめ、近隣周辺の人々からも手厚く尊崇されたので、町衆にも屋敷内の通り抜け参詣を許すなど異例の措置をとったという。
特に先斗町・木屋町の町衆などからは、近隣の産土神(うぶすなかみ)として崇敬されたが、明治維新になり土佐藩京屋敷が売却されるとき、一時、下大阪町に奉遷。その後、神社の衰微を憂い、備前島町の近江屋(初代・井口新助)が、元土佐藩用人邸を買い取り、明治20年(1887)遷座したのが現在地である。
大正2年(1913)には先斗町・木屋町その他、近隣在の信徒が募金を行って大規模な造営を行い、現在の社殿が建立された。
更に近年に及び先斗町・木屋町など周辺の有力町衆信徒により、崇敬会が設立され、浄財により、社殿及び、明治10年(1877)より伝わる「神輿」も完全に修復し、近隣団結のシンボルとなり、火除け・厄除け・大願成就・あるいは縁結びの神として、地元町衆に信仰されている。当神社宮司は八坂神社宮司が兼任。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
新京極通を横切ると蛸薬師堂が西向きで構えている。
<蛸薬師堂>
蛸薬師堂は、正式な名前を「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」といい、元は二条室町にあった。養和元年(1181)室町に一人の富者がおり、髪を落とし林秀と号していた。比叡山根本中堂の薬師如来を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っていた。老年になったある日、薬師如来の仏前で、「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。 どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい。」と祈願した。
その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい。」と告げられた。林秀は大喜びし、翌日薬師如来の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来た。この尊像を持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けたのが、蛸薬師堂の始まりである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
蛸薬師堂に参拝し、西に向かう。寺町通、烏丸通を抜けていく。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
室町通を過ぎると右手(北側)に「南蛮寺跡」の石碑がある。
<南蛮寺跡>
織田信長の時代に、ヤソ会によって建てられた南蛮寺は、この北側、姥柳町の地にあったと推定される。戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄2年(1559)から本格化し、永禄4年(1561)にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害にあいながら、ヤソ会宣教師は、布教に努力、織田信長の保護もあって信者は拡大した。天正4年(1576)、古くなった礼拝堂を再建することにし、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助で完成、献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では、珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。しかし、天正15年(1587)九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じた。南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地には復興されなかった。
南蛮寺跡を後にし、小川通まで進む。道の角に「此付近本能寺址」の石碑がひっそりと立っている。石碑の立っている建物に沿って進むと本能消防分団があり、その前に「本能寺跡」の立派な石碑が目に入る。今。この付近では本能寺をしのぶものは何もないが、当時は大寺であったと記されている。東西150m、南北300mもあったようである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
油小路通と醒ヶ井通の間の左手(南側)間に空也堂がある。
<空也堂>
空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付するなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。
毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍念仏と重要無形民俗文化財の六斎念仏焼香式が奉修される。
空也堂を後にし、西に進むと堀川通に出る。堀川通を渡り更に進む。誓弘寺、正運寺などの寺が並んでいる通りを抜けるとバスが通る後院通に出る。やがて千本通に突き当たるのでここで蛸薬師通の散策は終わる。 |