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平安京開設時の高倉小路に当たる通り。藤原頼道の「高倉殿」があったことから高倉通と呼ばれ、中世には酒屋、土倉、油屋など「倉」に縁の深い業者が軒を連ねていた。応仁・文明の乱で荒れ果て、1590年頃から大規模に進められた、豊臣秀吉の京都大改造により再整備された。
通りの角に「御所八幡宮」がある。家の境の壁に「畳」と書かれた家もあり、再整備されたとはいえ歴史を感じさせる。 |
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四条通から高倉通に入り、一路北上する。ほどなく右手(西側)に「錦の銘水」がある。そして、京の台所とも言われている錦小路を横切って進んで行く。
<錦の銘水>
京都盆地地下の砂礫層に存在する地下水は、200億トンを超えるともいわれ、琵琶湖の貯水量に匹敵すると考えられている。なかでも、錦の地下80mより湧き出る水は、鮮度を保つ銘水として平安京の昔から友禅・豆腐など様々な文化を育んできた。 |
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京都市立高倉小学校の門から校内へ続く道は斬新なデザインである。そのそばに掲げられていた日彰自治会連合会による解説文を次に記す。
『ここは和久屋町(元日彰学区)です。町域は、南北の高倉通をはさみ、北は六角通から南は蛸薬師通に至る、天正年代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、両側町となっている。
寛永18年(1641)前平安城町並図では、高倉通の西側(元日彰小学校、現高倉小学校の地)に、徳川家康の異父弟久松定勝を祖とする伊予松山藩(現愛媛県)の京屋敷があり、人家が東側に集中し「かたはら町」と称された頃もあった。
東隣の甲屋町(かぶとやちょう)には、京の商人に大きな影響を与えたとされる心学を創設した石田梅岩(1685〜1744)の自宅があり、当時はここで、今でいうゼミナールが開かれていた。
近年では、洋画家で美学・美術史学者でもあった有名な須田国太郎(1891〜1961)が住まいをしていた。』
三条通りを渡り姉小路通との間に京都文化博物館がある。このひときわ目立つ建物は、旧日本銀行京都支店の建物で、スレート、銅板ぶき、赤レンガ造りである。明治39年(1906)辰野金吾の設計で建てられ、国の重要文化財になっている。
京都文化博物館内には「ろうじ(路地)店舗」がある。 |
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<ろうじ(路地)店舗>
京都には、西陣や五條坂のように織物や陶芸など産業と生活が調和し発達してきた町がある。そしてそこに生きる人々は町衆と呼ばれ、京ことばや今に伝わる数々の習慣などの豊かな生活文化を、暮らしの中で育んできた。
一方、京都は鷹ヶ峰につくられた光悦村のように、いろいろな作家の交流の中から新たな文化が創造されたという土地柄でもある。
こうした京都の優れた特性を生かしながら、来館された方々に、気軽に京の姿にふれていただこうとするものが「ろうじ(路地)店舗」です。
生活と産業が調和した場として、二筋の「ろうじ(路地)」を設け、商家や住居とともに発達した「格子」を建てて、幕末から明治初期の京の町構えを再現。
ここでは、京の伝統産品や料理などの京都の老舗が軒を並べ、実際、京ことばを使い商いが行われている。 |
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御池通にさしかかると右手(右手)に社がある。御所八幡宮である。
<御所八幡宮>
応神天皇、神功皇后、比売神の三神を祭神とする。もと御池通堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通りの強制疎開によってこの地に移転した。
この八幡社を御所八幡宮と呼ぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒によってであり、尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また高倉八幡とも呼ばれて親しまれてきた。特に安産と幼児の守り神として有名で、三宅八幡とならんで「むし八幡」と呼ばれて世間の信仰を集めている。 |
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御池通は道幅も広く、車の往来も非常に多い。町家小路とは別世界の光景になる。御池通を抜けると再び町家小路に戻る。 |
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明治8年(1875)創業の「万市」。器・美術品・絵画・家具など多彩にそろえてある。 |
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家の前に手押し井戸があり、消火用バケツも置いてある。道路に面した場所にあるのは初めて見る。実際に水が出るのか試してみたい気持ちにかられたが失礼なので写真に撮って通り過ぎる。
高倉通の散策も丸太町通で京都御苑に行き当たる。ここでこの散策を終わりとする。 |