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下立売通は、京都御苑の西、烏丸通から右京区嵯峨瀬戸川町に至る東西路です。一部は、平安京の勘解由小路(かでのこうじ)にあたっている。「立売」とは変わった名前だが、通りで物を売る立ち売りからきているのだろうか。本によれば裁ち売りという説もあると述べられている。下立売通があるので下立売通の上(北)に上立売通も当然のごとくある。
西大路通から下立売通に入り、烏丸通(京都御苑)と突き当たるところまでを歩く。その中で、下立売通と智恵光院通とが交差する辺りにある山中油店の建物が印象深い。 |
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西大路通から下立売通に入り、東に向かう。すぐに紙屋川の橋に着く。小さな川だが平安京の時に開かれた運河である。橋を渡ると左手(北)に竹林寺がある。
<竹林寺>
「平野国臣以下三十七士の墓」とある。平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに尊王攘夷運動に奔走したが捕らえられ、元治元年(1864)7月19日蛤御門の辺(禁門の変)の時、戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同士、天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名の勤王志士とともに未決のまま斬首された。
『憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地』と辞世の詞をよみ、37歳の生涯を終えた。明治10年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士37名の遺骨であることがわかり、改めて当寺に移葬された。 |
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竹林寺の筋向かいに法輪寺(達磨寺)がある。
<法輪寺>(達磨寺)
この寺は、臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれており、享保12年(1727)大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天像、珍しい等身の金箔大寝釈迦木像や、白隠禅師の夜船閑話で知られた白幽子の旧墓石がある。
三国一を称する起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で、節分は参詣客でにぎわう。本堂には、わが国映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる貴寧磨寺(きねま)や、島津源蔵夫妻の念持仏をまつる学神堂等がある。
達磨竹の逆さ竹を中心にインド・中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。 |
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法輪寺を後にし、東に進む。鰻を焼く好い匂いがしてくる。店の若い人が汗を拭き拭き焼いている。真夏の昼前、こちらも暑い。「鰻はどこからくるのですか?」と尋ねると「東三河や浜名湖から」という返事。辺り一帯に鰻を焼く匂いが漂う。鰻丼を食べたい。我慢して更に東に向かう。 |
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七本松通を越して進むと弘誓寺がある。その門の角に「木村長門守重成公旧館地」の石碑がある。木村重成は、大阪夏の陣で戦死した豊臣秀頼の家臣である。
千本通を渡り、しばらく進むと「平安京内裏承明門跡」の石碑が立っている。この周辺から北側一帯が平安京内裏であった。 |
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江戸時代から続いている油専門の老舗「山中油店」の町家造りの建物にしばし足が止まる。店先の一角に西陣の空襲についての展示品がある。
<西陣の空襲>
昭和20年(1945)6月26日午前9時半頃、B29の編隊(6〜10機)が近畿地方に侵入し空襲警報が発令された。編隊は京都市上京区を北西から南東に進行中で、そのうちの1機が上京区出水地域に50キロ爆弾7個を投下した。この地域の被害が京都市ではもっとも大きく、北は上長者町通、南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通の約400m四方の範囲で、死者50名を出した。負傷者は正親、出水、待賢の各小学校の救護所に運ばれ、手当を受けた。その数は66名といわれているが、救護にあたった医師は、負傷者は300名以上であったと言っている。6月30日には正親小学校で死者の合同葬儀が行われた。被害家屋は全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸の計292戸で、被災者は850名に達した。
これは、この地の空襲の際、山中油店の家に落ちて来た爆弾の破片です。
私は今まで、京都には空襲がなかったと思っていた。しかし、ここでその認識が誤りであることを知らされた。山中油店では、ショウーウィンドウの一部をさいてこうした貴重な歴史的遺物(?)を展示していることに敬意を表す。 |
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山中油店の東側には苔むした水車が回っている。小さな小さな川が流れ、真夏の暑さの中では一服の涼感である。その一角に「平安京一本御書所跡」の石碑が立っている。
<平安京一本御書所跡>
平安時代、この付近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、一本御書所があった。一本御書所は、平安時代中期の天暦2年(948)頃から「貞信公記」などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南側にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下に預(あずかり)や書手などの役があった。
「日本紀略」康保元年(964)10月13日粂には、一本御書所で清書した二百二十二巻を大蔵省の野御倉に遷納したことが記されている。また平安時代後期には、鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
「平治物語」によると、平治の乱(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。
なお、陽明文庫本「宮城図」にはこの付近を御書所と記しているが、「西宮記」によると。内裏外郭北門(朔平門)西の式乾門の内の東掖門には御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御書所は内裏内の承香殿の東片廂にあったとする。 |
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堀川通の大通りを渡る。しばらく進むと北側に京都府庁・旧本館の建物が目に入る。府庁に入ってすぐの所に「慶應義塾京都分校跡」と「京都守護職上屋敷跡」の石碑がある。慶應義塾は福沢諭吉によって開校された。 |
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<京都守護職上屋敷跡>
幕末京都の警備を命じられた京都守護職は、市中に数カ所の広大な屋敷を構えた。現在の府庁にあたる敷地もその一つで、この敷地は「上屋敷」跡にあたり、度重なる増改築を経て慶応元年(1865)に完成した。京都守護職の任にあたったのは会津藩主松平容保である。
規模は現在の敷地ほぼ全てを占め、正門や敷石、玄関等は大変豪華なものだったといわれている。 |
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府庁を後にして東に向かう。平安女学院の大きな建物があり、その角に「旧二条城」の石碑が立っている。
<旧二条城>
永禄12年(1569)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等により)
その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7年(1602)に築かれた。 |
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下立売通の散策はここで終わりとなる。烏丸通に出る。通の向こうは京都御苑になる。烏丸通との角に「日本聖公会聖アグネス教会聖堂」が重厚な姿で建っている。
<日本聖公会聖アグネス教会聖堂>
日本聖公会聖アグネス教会聖堂は、大阪の照暗女学校が明治28年(1895)に京都へ移り平安女学校と改称されたとき、その礼拝堂として、アメリカ人J.M.ガーディナーの設計により、明治31年(1898)に建築されたものである。この建物はさらに、日本聖公会京都教区の大聖堂としての役割も果たし、聖三一大聖堂とも呼ばれていた。現在は、京都教区の大聖堂と聖アグネス教会の聖堂を兼ねている。
建物は、三廊式バシリカ型平面で、南西隅に八角平面の洗礼室、北東隅に三層の鐘塔、南東隅に司祭室を設けている。意匠的には、外観はやや重厚であるのに対し、内部は柱や小屋組の部材が比較的細く簡素なものとなっている。
この聖堂は、煉瓦造の教会堂としては古いほうに属し、ガーディナー設計の初期の教会堂作品としても貴重であり、昭和60年(1985)6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。 |