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山陰本線・丹波口駅の近くから大和大路通まで続く東西路を歩く。豊臣秀吉を祀る豊国神社の正面に出る。 |
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京都中央卸売市場の東側道路に隣接する西新屋敷児童公園横から正面通に入り、一路東に向かって歩いていく。大宮通まで来ると西本願寺に行く手を遮られる。そこで大宮通を北に進み、西本願寺の北側の通り(花屋町通)に出て東に向かう。迂回をして西本願寺の唐門のあるところまで進む。
<本願寺>
浄土真宗本願寺派の本山で、通称、西本願寺といわれてる。本願寺は文永9年(1272)宗祖親鸞聖人のむすめ覚信尼が東山大谷に仏閣を建て、親鸞聖人の御影を安置したことにはじまり、本願寺第8代蓮如上人の時(室町時代)に、教団は飛躍的に発展した。しかし、寺地は山科、大阪など各地を転々とし、天正19年(1591)豊臣秀吉からこの地を寄進された。
当時の建物の配置と構造は、真宗建築の典型で、御影堂が本堂よりも大きく、また堂内には自由に参拝できるように造られている(ともに重要文化財)。御影堂の後ろには、寛永9年(1632)ごろ建築された書院(国宝)があり、建築や彫刻に粋をこらし豪華なふすま絵で飾られている。飛雲閣(国宝)は、豊臣秀吉の建てた聚楽第の遺構といわれ、桃山時代様式の邸宅建築としての特色を有している。このほか唐門、北能舞台の建物や親鸞聖人御影(何れも国宝)など、多数の文化財を蔵している。 |
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「今、いのちが あなたを 生きている」
いいことばだなと思う。思わず何枚か撮る。堀川通を横断し総門から再び正面通に入る。仏具店が並んでいる。 |
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しばらく歩くとまた行き止まりになる。そこに渉成園がある。
<渉成園>(枳穀邸)
東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんで枳殻邸とも呼ばれる。寛永18年(1641)、この地を徳川家光から寄進を受けた本願寺宣如上人が、承応2年(1653)、石川丈山らとともに庭園を築き、別邸としたところである。もとは、鴨川に達する広大なものであったが、現在でも200m四方の大きな庭園である。この地は、平安時代の初め、左大臣源融が奥州塩釜の風景を模して作った河原院の跡に近く、作庭に際し、印月池(いんげっち)と呼ばれる広い池を中心に、池には島を浮かべて石橋や土橋で結び、周囲に樹木を茂らせ、源融をしのぶ名所も作られて、平安期の面影を再現している。
園内には、楼門傍花閣(ぼうかかく)、書院?風亭(ろうふうてい)、滴翆軒(てきすいけん)、臨池亭(りんちてい)、茶席漱枕居(そうちんきょ)、縮遠亭(しゅくえんてい)
、持仏堂の園林堂(おんりんどう)、橋廊の回棹廊(かいとうろう)などいずれも蛤御門の変による大火後の再建であるが、庭園によく似合った建物が配されている。 |
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渉成園の門前(間之町通)を北に進み、渉成園の角を右に折れ東に進む。河原町通に出るのでそこを右(南)に折れる。少し進んで左折し再び正面通に入る。細い道が続く。ここでも北側に迂回したことになる。
やがて高瀬川に出る。橋には「志よめんはし」と刻まれている。鴨川に出る手前に「眼科・外科医療器具 歴史博物館」がある。江戸時代からの医療器具等を展示してある。 |
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高瀬川を過ぎ鴨川にさしかかる。正面橋のたもとに鐘が縛り付けられてある。なぜここに鐘があるのか。何の説明らしきものは見あたらない。 |
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<烏寺>
熊谷山専定寺と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。寺伝によれば、昔、専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると、2羽の烏が梢にとまり「今日は蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか。」と語り合い、南の空へ飛び立た。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していた同日(承元2年(1208)9月14日)の同刻に亡くなってた。そして法師は、ここを有縁の霊域と感じ草庵を結んだのが当寺の起りといわれている。かつてはこの故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、大仏(方広寺)七不思議の一つに数えられていた。
本堂に安置されている本尊阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、平安時代後期の作風を示し、また金箔による像内化粧を施してあるなど貴重なもので、京都市の文化財に指定されている。 |
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豊国神社の鳥居が見えてくる。鳥居のごく近くに「耳塚(鼻塚)」がある。
<耳塚(鼻塚)>
この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手を伸ばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598年)にかかる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本に持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ない頃の創建と想われる。
秀吉が惹き起き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。 |
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<豊国神社>
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。 |
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豊国神社の北側にある方広寺の大鐘、「国家安泰 君臣豊栄」の文字が豊臣家の滅亡につながっていく歴史的な大鐘である。
正面通の散策は豊国神社をもって終わる。名前のとおり豊国神社の正面でもって終わった。 |