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平安京の三条大路にあたる。江戸時代には東海道の起終点になった三条大橋があり、京の主要な東西路である。老舗の町家と近代の赤レンガ建築が建ち並ぶ通りで、三条大橋から千本通に至るまでを散策する。 |
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三条大橋の東側から西に向かう。三条大橋の手前、三条京阪前に「高山彦九郎・皇居望拝之像」がある。
<高山彦九郎・皇居望拝之像>
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747〜1793)の姿を写したものである。高山彦九郎は、群馬県の出身である。18歳の時以来、前後5回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した。その姿は
橘 曙覧(あけみ) |
大御門その方向きて橋の上に 頂根突きけむ真心たふと |
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだといわれる。後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には
人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遙かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は 鴨の水アサノサ |
と謡いつがれた。 |
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鴨川に架かる三条通の橋で擬宝珠を冠した木造風の橋は、京都の風情を感じさせる橋として親しまれている。擬宝珠14個は当時のものが使われているとのことである。
<三条大橋>
この橋の架けられた年代については明らかではなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。
また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「落陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、磐石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。
元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74m、幅15.5m。1950年に改修されたものだが、豊臣秀吉が建設した当時の面影を残し、擬宝珠14個は当時のものが使われているとのことである。
なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。
我が国、最初の駅伝が行われた記念碑がある。大正6年(1917)4月27,28,29日の3日間行われ、スタートは京都・三条大橋、ゴールは東京・上野不忍池であった。
<擬宝珠刀傷跡>
三条大橋西側から2つ目の南北擬宝珠に刀傷がある。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。 |
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三条大橋を渡るとすぎ高瀬川の小さな橋に出会う。木屋町通との角に「佐久間象山・大村益次郎遭難之地の石碑」の案内がある。少し歩くと右手(北側)の道路に「池田屋事変跡地」のプレートと「池田屋騒動之址」の石碑が見えてくる。
<池田屋騒動>
元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭宵々山」、四条小橋の古橋俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、討幕派がク−デタ−を起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」で密談中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、多くの死傷者を出した。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被った。一方、新撰組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげた。
文久3年(1863)2月早朝、浪士組(後に新撰組)は東海道五十三次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、池田屋の前を通り壬生屯所に向かっていた。まさか、その1年3ヶ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、誰も予想していなかったことでしょう。 |
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河原町三条の交差点を渡り、三条名店街に入る。針の老舗「三條本家みすや針」、すき焼きの老舗「三嶋亭」などを見る。
寺町通り三条は、東海道を延長した三条通と寺町通の交差点で、桃山時代以来、殷賑をきわめたところである。三条通は、平安京の三条大路にほぼ該当し、古くから東国・西国に通じる道路として重視された。 |
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麩屋町通を越すと左手(南側)に旧家辺徳時計店の赤レンガ造り建物がある。
<日本生命京都三条ビル外観>
旧日本生命京都支店は、辰野金吾・片岡安の設計、山本鑑之進の施工により、大正3年(1914)7月に竣工した。この建物の外観は、辰野が「辰野式」と呼ばれる独自の洋式で赤煉瓦造の建物を多く手がけており、一方、片岡安は石貼りを多用した直線的な細部意匠を用いていたことから、そうした両者の特色をよく示している。また構造面においては、耐震性への配慮から、西欧の純粋な煉瓦造でなく、中に鉄骨を入れている点に特徴がみられる。
現在の建物は、昭和58年(1983)に改築されたものの、塔屋を含む東側が鉄筋コンクリート造で補強した上でファサード保存され、建築当時の外観を残すとともに、近代洋風建築が建ち並ぶ三条通りにおいて、歴史的景観のポイントともなっている。
匂い袋の専門店「石黒香舗」が左手(南側)にある。昔から着物の保存に使われてきたものだが、現在風にアレンジして見ていても楽しい匂い袋の数々を拝見する。 |
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・歴史を感じさせてくれる「分銅屋足袋」。幕末から続いている老舗である。店先に並べられている足袋をしばし眺める。 |
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高倉通辺りから烏丸通にかけて近代の洋風建築が建ち並んでいる。
<旧日本銀行京都支店>
この建物は、明治36年(1903)9月に着工され、明治39年(1906)6月に竣工した日本銀行京都支店の建物である。日本銀行京都出張所は明治27年(1894)4月に東洞院通御池上るに開設されたが、業務の拡張にともない明治39年(1906)7月にこの三条通高倉の地に移築移転された。その後、明治44年(1911)6月に出張所から京都支店に名称変更された。日本銀行は昭和40年(1965)10月に河原町通二条に移転され、建物は昭和42年(1967)4月から財団法人古代学協会の所有となり、平安博物館として使用され、昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定された。昭和61年(1986)4月に京都府に寄贈され、京都府教育委員会文化財保護課により創建当時の姿に修理・復元された後、昭和63年(1988)10月に京都府京都文化博物館の別館として一般公開した。
<中京郵便局旧庁舎外観>
中京郵便局の旧庁舎は、京都郵便電信局として、逓信省営繕課の吉井茂則・三条四郎の設計、同小泉鉄也の監督のもと安藤組の施工により、明治35年(1902)8月に竣工した。ネオルネッサンス様式のこの旧庁舎は、当寺の代表的郵便局で、日本の近代建築史においても重要な位置を占める作品であった。
昭和51年(1976)3月から昭和53年(1978)4月に中京郵便局の改築が行われたが、このとき旧庁舎の南面及び東西側面の一部の外壁と屋根が保存された。
中京郵便局は、近代京都における経済の中心地であった三条通に位置し、旧庁舎の外観は当時の雰囲気をよく伝えている。またその意匠は優れたもので、三条通の景観保全にも寄与しており、昭和61年(1986)6月2日、京都市登録有形文化財に登録された。
<教諭所(宣教館)跡>
幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、もと、皆川淇園(きえん)門下の北小路梅荘が計画し、天保4年(1833)許可されて室町丸太町下るの町屋に開校した。数年後衰退し中絶したが、天保8年(1837)の飢饉に経済活動に従事した心学講社の援助を得て、翌9年7月東洞院三条下る住心院地内に新築、開講された。
教諭所の教育運動の特徴は、経書講釈や心学道話の授業のほかに飢民救助などの社会事業に積極的に参加したこととされている。
元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで焼失したが、翌2年2月、東洞院三条西北角の当地に再建された。明治2年(1869)2月、下京四番組小学校となり、教諭所は消滅した。 |
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烏丸三条の交差点を渡る。町家の屋根に置かれている空調の室外機に、町家の外観に合わせた囲いがある。今まで、室外機はそのまま置かれている様子ばかりを見てきたので、とても印象的で思わずカメラを向ける。家主の思いに感心する。
「釜師」という看板に目がいく。釜師とは、茶釜を鋳る職人をいう。茶の湯釜の製作技能者をさす。室町時代末期に専門工が出ている。釜師の作品が展示されている大西清右衛門美術館がある。 |
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堀川通を渡るとアーケードの商店街「三条会」が続いている。野口みずき選手の応援垂れ幕が大きく掲げられている。やがて千本通に到着。ここで三条通の散策を終わる。老舗の町家と近代レンガ建築が点在する街並みであった。 |