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堀川五条交差点の北東角から細い道を北上する。上左画像(堀川五条交差点)の右隅の細い道・横断歩道の下に見える道が醒ヶ井通である。
左女牛井(さめがい)跡は堀川五条交差点を少し南に下った所にある。
<左女牛井跡>
京の名水として平安時代より知られ源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていた。
室町時代には南都の僧村田殊光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという江戸初期元和2年5月織田有楽斎はこれを改修した。内径二尺四寸の円井戸であった。その後天明の大火で埋もれたが、寛政2年、藪内家六世によって修補され、その碑が七世竹猗によって建てられていたが円井戸碑ともに第2次世界大戦末期の強制疎開とともに撤去された。昭和44年醒泉小学校百周年記念事業の一つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。 |
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醒星小学校の校地に平安朝の学者三善清行邸の石碑がある。 |
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古くから和歌の神として歌人の信仰篤い住吉神社がある。境内には柿本人麻呂を祀る人丸神社がある。(下段2枚の画像)
<住吉神社>
後白河天皇が和歌の参神を平安京に勧請される為保元2年(1157)藤原俊成に勅された。俊成は勅を奉じて、摂津の国、住吉より五條室町の地に分祀し、新住吉と称え祀った。
それより朝野の崇敬厚く、和歌所の別当が奉齋して、社運隆盛を極めたが、応仁の乱の兵火にかかり、社殿悉く消失した。永禄11年(1566)正親町天皇が荒廃を惜しまれ、現在の地に遷座、正殿を造営した。爾来、歴代の崇敬篤く、歌道伝授に際しては、勅使が派遣され代拝した。
その後、2度にわたり類焼、再造されたが明治32年(1899)冷泉為紀の呼びかけでで広く寄附をつのり、同11月現在の社殿が建立された。 |
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天台宗・観音寺が通りに面している。狭い境内だが、古寺である。三寶荒神(さんぼうこうじん)で有名である。三寶荒神(三宝荒神)は、台所の神として信仰されている。 |
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醒ヶ井通を更に北に向かう。染色も含めた呉服関係の店も目に付く。道幅が狭く小路という景観である。 |
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四条通との交差点に出会う。四条通を渡った角に「亀屋良長」がある。その道沿いに「醒ヶ井水」がある。最上段の画像がそれである。
<醒ヶ井水>
醒ヶ井水の由来は古く平安の昔六条堀川源氏の館内にあり、室町後期茶道の祖村田殊光は足利将軍義政にこの水で茶を献じた。天正年間織田信長の舎弟織田有楽斎もこの井戸水を愛し、戦国の兵乱に絶えた井戸を再興した。もとの井筒には元和2年(1616)の銘を刻した嘉永2年(1849)の石碑が立っていたが、戦時中の強制疎開で跡形もなくなった。醒ヶ井の通りは今では六角通りより下、五条通りまでの間だけとなっている。
<敷石>
亀屋良長の駐車場の敷石は四条通りの京都市電の敷石として昭和47年(1972)1月まで使われていたもので、市電廃止後、縁あって当店でお役に立つことができた。(上右画像) |
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<空也堂>
空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付するなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。
毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍念仏と重要無形民俗文化財の六斎念仏焼香式が奉修される。 |
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六角通との交差点で醒ヶ井通の散策を終わる。住宅の合間に越後神社があるので訪ねてみる。
<越後神社>
この辺りは明治時代より青山屋敷という名称があり、その屋敷跡の総坪数は約1340坪で庭園には300坪程の大池があった。
写し友禅の創業者である広瀬治助が青山屋敷跡に工場を建て豊富な水量を水洗に利用していたので池水は京友禅発祥の泉といっても過言ではない。昭和10年頃より水位も下がり全く水も湧かなくなり、埋め立てて土地に変わった。
昭和25年(1950)に、島でったお宮のところに池辺のお宮を移動させ並祀、昭和35年(1960)に越後神社を設立した。 |