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1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。当時は人家が少なく、町と野原の境であったことから堺町通と呼ばれるようになった。また、二条通より南は材木町通、四条辺りは亀屋突抜とも呼んでいた。 |
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五条通から堺町通に入り北上する。すぐ右手(東)に久保田豆腐店がある。ここは江戸時代から続く店とのこと。左手(西)に、「鉄輪跡」(かなわ)の石碑があるので奥に入っていく。
<「鉄輪ノ井」由来>
謡曲「鉄輪」は、男に捨てられた市井の女が、貴船へ”丑(うし)ノ刻詣り”をして、相手の男と、その後妻をを祈り殺そうとする話が骨子になっているが、この井戸は”鉄輪の女”が住んでいたところのものだといい、一説には身投げをした井戸ともいわれている。このような伝説から「縁切り井戸」として、井水を汲んで相手にのませると、悪縁が切れるなどの俗言があった。昭和10年(1935)には「霊井」となっている。なお、かつては鉄輪できずかれた塚があったということです。
<鉄輪(かなわ)の伝説>(鉄輪井・鉄輪塚・鉄輪社)
むかし、火鉢の囲炉裏(いろり)に置いて、鍋や薬罐(やかん)をかける三本足の五徳のことを、鉄輪とよんでいた。能にも『鉄輪』(伝・世阿弥作)の謡曲がある。下京に住む女が、自分を捨てて後妻をめとったことを恨み、貴船神社に、丑刻(うしのこく)詣をしていると、鉄輪を頭にのせ、三本の足に火をともし怒りの心をかきたてると、鬼になれるとお告げがあった。夫は、それ以来悪夢に苦しみ、安倍晴明に占ってもらうと、今夜、命を失うということです。それで、調伏の祈祷をうけていると女の鬼が現れ夫をつれていこうとするが、三十番神に追われ苦しみながら去っていく。
貴船川 鉄輪の火かや 飛ぶ蛍 (俳諧『犬子集(えのこしゅう)』三・蛍)
多くの文学や歌曲などに影響を与えてきたのも、この鍛冶屋町の「鉄輪井」です。この鉄輪の女が、安倍晴明に調伏され、ついに、この鉄輪井のあたりで息が絶えてしまったと言い伝えている。それで、鉄輪とともに霊を弔い、「鉄輪塚」を築いたもののようです。昭和10年(1935)、鉄輪井のよこにまつられている町内の氏神、命婦(みょうぶ)稲荷社を再建するときに、鉄輪井も「霊泉」として残すため、板の井戸枠を板石にあらため屋根をかけた。その地ならしのとき、土の中から「鉄輪塚」の石碑が発掘され、「鉄輪社」の小祠をつくり、鉄輪大明神の御神体として納め、命婦稲荷社のよこにまつっている。
昔は、この鍛冶屋町を「鉄輪町」(『京雀』寛文5年(1665)刊)とも呼ばれ、よく知られていたようです。また、「鉄輪井」を、「縁切井戸」としても有名であった。この井戸水を飲ますと相手との縁が切れるといわれ、遠くからもこの井戸水を汲みにくる人があった。それで、井戸に絵馬や花が供えられていたと聞いている。
今は、地下鉄工事などの影響で水が涸れてしまった。それでも、ペットボトルに水を入れてきて「鉄輪井」に供えて祈り、持ち帰る人もあるようです。
この「鉄輪」の伝説は、この町の南の本塩釜町にあったとする六条御息所邸(ろくじょうのみやすどころてい)の生霊(いきりょう)、北にある夕顔町など、『源氏物語』の影響もあったようです。また、「ある公卿の女、余りに嫉妬深くして貴船の社に詣でつつ(『平家物語』剣巻)などのあらすじと重なり、謡曲の『鉄輪』が生まれ、鍛冶屋町の「鉄輪」伝説ともなったようです。
鉄輪塚
伝へ言フ。昔、嫉妬ノ女アリ。ヒトヲ呪詛(のろ)ヒテ、神ニ祈リ、夜毎、丑ノ時、社参ス。終ニ、此コニオイテ、気疲レテ死ス。シカフシテ、ソノ霊荒ルルヲモッテ、戴(いただく)クトコロノ鉄輪ヲモチテ、塚ヲ築キテ、コレヲ祭ルト言フ。
『山州名跡志』巻十七(紗門白慧、元禄十五年(1702)三月自序) |
其の他、鉄輪井・鉄輪塚の古地誌類として、『出来斎京土産』(延宝五年(1677)刊)、『名所都鳥』(元禄三年(1690)刊)、『山城名跡巡行志』(宝暦四年(1754)跋)、『拾遺都名所図絵』(天明七年(1787)刊)、などの抜粋古文書を、当敬神会が保存している。
京都市下京区堺町通松原下る 鍛冶屋町敬神会 |
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松原通を越すと、民家の前に「夕顔塚」の石碑がある。源氏物語の夕顔がこの辺りに住んでいたということである。賑やかな四条通の交差点を通り抜け更に北に進む。 |
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四条通の次に交差するのが錦市場である。この辺りの南北にはしる小路は全て錦小路通(錦市場)と交差している。 |
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蛸薬師通を過ぎると「石田梅岩邸跡」の石碑がある。石田梅岩は、江戸時代の思想家で石門心学の開祖である。その教えは商人の営利活動や勤勉・倹約を奨励することを説いた。コーヒーの老舗「イノダコーヒ本店」もこの通りにある。大勢のお客さんで満員状態であった。
この付近には美術・工芸・骨董などの店が多い。 |
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御池通を大きな交差点を通り抜ける。左手(西)にキンシ正宗発祥の地・堀野記念館がある。玄関前の解説文によれば
『天明元年(1781)、若狭出身の堀野家の初代松屋九兵衛は、この地で造り酒屋を始めた。堀野商店(現キンシ正宗)は、明治になってから酒蔵の一つを伏見に置き、戦後は本社も伏見に移したが、創業の地であるこの家は往時の姿をそのまま守り続けて残されてきた。当時御所の南の一帯には、造り酒屋がかなり集まっていた。おそらく醸造に適した良質の水脈が豊富にあったのだろう。(以下省略)』とある。
堀野記念館では、京の銘酒、京の地麦酒など味わえるのだが、入った時刻が閉店時刻ちょうどであった。店内をさっと見渡して出る。 |
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堺町通が丸太町通で行き止まりになる。正面には「堺町御門」が見える。禁門の変(元治元年(1864))で戦いがあった所である。
堺町通は、京都では比較的新しい通りの一つであるが、美術工芸の店や歴史的跡地などがあって楽しい散策であった。 |