京都「町家小路」写真紀行   京都「町家小路」を写真と文で紹介

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六角通 六角堂   京都市中京区
六角堂
 六角堂の門前を通ることから通り名が付いた。坊城通から六角通に入り、東に向かう。六角堂を目標に歩き、木屋町通・高瀬川まで散策する。
六角通・武信稲荷神社 六角通・武信稲荷神社
六角通・武信稲荷神社のエノキ 六角通・武信稲荷神社のエノキ
武信稲荷神社のエノキ> 
 武信稲荷神社は、平安時代この近くにあった藤原氏の学問所勧学院と医療施設延命院の守護社として、右大臣藤原良相によって創建されたと伝えられている。
 このエノキは、平重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移し植えたという伝承を持ち、神木とされている。
 この付近は、壬生(水生)という地名からもうかがえるように、かつては地下水位が高く、こうした地質がこの古木を育成したと考えられる。市街地の中にこのような大木があることは貴重であり、昭和60年(1985)6月1日、京都市指定天然記念物に指定された。
坂本竜馬と榎(えのき)
 社の南には江戸時代幕府直轄の六角獄舎があり、幕末勤王の志士が多数収容されていた。その中に坂本竜馬の恋人「おりょう」の父が勤王家の医師であったため捕らえられていた。先に様子を見に来た竜馬は、後に訪ねてくるであろう「おりょう」への伝言に榎の幹に「龍」の字を彫ったと伝わる。
 現在は榎が生長し「龍」の字は消えているが、幕末大変動期におけるロマンが感じられる逸話である。
六角通・六角獄舎跡「勤王志士忠霊塔」 六角通・六角獄舎跡
 マンションの一角に六角獄舎跡がある。この獄舎には尊皇攘夷派の志士たちが捕らえられ、ここで処刑されている。
平野国臣殉難の地
 幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑された所である。この地はもと「六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。
 国臣は、もと福岡藩士で、尊皇攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕らえられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが同年7月19日長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊皇攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか、古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。
 なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行った所とも言われ、付近には記念碑も建っている。
近代医学のあけぼの 観臓の記念に
 宝暦4年(1754)2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705〜1762)は所司代の官許を得て、この地で日本最初の人体解屍観臓を行った。江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた。
 これが実証的な科学精神を医学に取り入れた成果のはじめで、日本の近代医学がこれから芽生えるきっかけとなった。東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさねるためここに碑をたてて記念とする。(昭和51年(1976)日本医師会、日本医史学会、日本解剖学会、京都府医師会)
六角通 六角通
六角通 六角通
六角通 六角通
 六角獄舎跡から東に進む。「きぬごし」と書かれた豆腐屋や落ち着いた雰囲気を漂わせる町家を見ながら歩く。
六角通 六角通
 「うなぎの寝床」と称される狭い間口から奥行きが深い町家を見て、やがて烏丸通の大通りに出る。
六角堂 六角堂
六角堂 六角堂・京のへそ石
 烏丸通を渡るとすぐ左手(北側)に六角堂がある。
六角堂
 寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六画宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は、聖徳太子で四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山天皇の御幸があり、西国三十三ヶ所観音霊場(現18番の札所)となったと伝える。建仁元年(1201)、親鸞上人が当寺に百ヶ日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍石(へそいし)といい、古来、京都の中心にあたるとされてきた。
 六角の建物には、六根清浄、すなわち眼(げん)、耳(じ)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)による6つの煩悩を鎮める意味が込められているという説もあるとのこと。
 また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名。現在も池坊華道の拠点となっている。
へそ石
 桓武天皇の延暦12年(793)京都へ遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったので天皇が遷座を祈願されたところ御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。
 この石はその際に取り残された礎石であると伝える。また、京都のほぼ中央に当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれる。
六角通 六角通
 六角堂を後にして進むと、自転車屋がある。庇の上に自転車の載せてある。自転車屋などど看板を立てかけるより、この方が一目で分かる。
六角通・宮脇賣扇庵 六角通・宮脇賣扇庵
六角通・宮脇賣扇庵 六角通・宮脇賣扇庵
 京扇子の老舗、宮脇賣扇庵。創業は文政6年。風格ある重厚な店構えが趣を増す。扇絵の美しさにしばし足を止める。
六角通 六角通
 六角通の散策も高瀬川・木屋町通で終わりとなる。高瀬川に架かる橋の手前に彦根藩邸跡の石碑がある。 

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