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御池通と二条通の間を東西に走る押小路通。二条城前(堀川通)から高瀬川に向かって東に歩く。柳馬場通との角にある蒲鉾の茨木屋の風格ある建物が印象深い。 |
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堀川通から押小路通に入る。押小路橋を渡る。油小路通を過ぎると「閑院址」の説明版と「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の石碑が並んで立っている。
<閑院址>
ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸であったところである。当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
また高倉天皇の時代(1161〜1181)大内裏が甚だしく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。以来、後深草天皇に至る9代90余年間里内裏になっていたが、正元元年(1259)5月に火災で焼失した。
閑院の南殿にて月前松を詠める |
いまはまた世々をかさぬる 庭の松 ふりてぞみゆる秋の夜の下 |
順徳天皇
閑院があった土地付近はのちに豊臣秀吉の妙顕寺城が建てられる。
<豊臣秀吉妙顕寺城跡>
この附近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させて、あとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住し京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。 |
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釜座通との角に「東三条院址」の石碑がある。
<東三条院址>
東三条院の址はこの辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、廷内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。その華やかな様は「本朝文粹」にも記されているが、邸は安元3年(1177)に火災で焼失した。
新町通と交差する辺りでリヤカーで豆腐を売る人とすれ違う。「トーフ、トーフ」という懐かしいラッパの音を聞く。実際の正確な音は「トーフ、トーフ」ではなく、なんと聞こえたか想い出すことが出来ないが自分の心の音として、「トーフ、トーフ」である。 |
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烏丸通の大きな交差点を渡り、東に進む。町家の屋根には鍾馗さんが下を見ている。柳馬場通との角に蒲鉾の茨木屋の風格ある建物が見えてくる。屋根の上にのっている蒲鉾の字が右書きされている。建物が黒塗りされていることで独特の雰囲気を放っている。
茨木屋の先に大江能楽堂がある。大江能楽堂は、観世流大江家5世竹雪が、明治41年(1908年)に創建し、大正8年(1919)に現在の規模に改築したもので、自然光の入る貴重な能楽堂である。 |
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茶道具の奇竹堂、鍛金、彫金を主流に伝統的な技術で茶道具 ・ 香道具 ・ 仏具 ・装飾品、引手や掛け軸の軸先などの錺金具の竹影堂など歴史を感じさせてくれる店が続く。 |
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河原町通を渡ると軒の高さが揃っている建物が続いている。画像は東向きに撮ったものと西向きに撮ったものとを並べてある。 |
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押小路通は高瀬川の先、木屋町通で突き当たる。小さな石橋・押小路橋が高瀬川に架かっている。押小路橋のすぐ北に高瀬川の象徴ともいえる「一之舟入跡」がある。堀川通(二条城前・押小路橋)から歩き始めた押小路通の散策は、木屋町通(押小路橋)で終わる。
<高瀬川の水運>
京都は古代・中世を通して日本最大の都市であり、経済・文化の中心であった。この情況は近世に入っても変わらなかったが、内陸部に位置していたため、交通運輸の面で大きな隘路を抱えていた。これを打開するために開発されたのが、大量輸送を目的とした、伏見・二条間をつなぐ高瀬川水運であった。その計画と施工者は著名な嵯峨の豪商、角倉了以である。
この交通大動脈の完成は、京都を大阪より直接水運で結ばせることになり、近世京都の経済発展を支える基となった。この高瀬川の全長は、5648間2尺(約11.1q)、川幅平均4間(約8m)をはかり、水路にそって9ヵ所の船入が設置された。総工費は7万5千両を要した。 |