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1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。一条通以北に西側に堀川に流れ込む小川(こがわ)が流れていたことから小川通と呼ばれるようになった。室町時代には将軍足利義尚の小川御所があったことから小川の川沿いは開けていたことだろう。 |
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堀川通と紫明通の合流地点辺りから小川通に入り一路南下する。左右に妙覚寺、大応寺、本法寺の寺を見る。
<妙覚寺>(上左画像)
妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている。開山は日像聖人だが、永和4年(1378)に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地に創建した。後に二条衣棚に移り、再び豊臣秀吉の命により現在の地に移転した。
この大門は、当時の記録によると聚楽第の裏門であったと伝えている。本瓦葺・切妻造の薬医門で本柱筋にのる大きな板蟇股には外側に上巻渦、内側には上下二段に大きな下巻の渦文をつけている。この板蟇股の内部には人が隠れるぐらいの空間があるのも、この大門の特色で、左右にくぐり戸を配し、長い袖塀を持つ姿は、聚楽第の遺構にふさわしい堂々たるものです。
<大応寺>(上右画像)
金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は9世紀初期、壇林皇后によって悲田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明2年(1470)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正14年(1586)に虚応和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一宇を建立したのが当寺の起こりである。
堂宇は度々火災にあい、現在の建物は文化5年(1808)以降の再建である。本堂内には、本尊として釈迦如来を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。
境内にある織部稲荷社は当時の鎮守社で、17世紀初頭の織部流茶道の祖、古田織部正が伏見稲荷から勧請したものという。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の信仰が篤い。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行われる。本堂背後には後花園天皇の火葬塚がある。
<本法寺>(下2枚画像)
叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起こりという。
はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉・中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門も墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。寺宝には、銭舜挙筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵している。 |
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本法寺の向かい側に茶道の両千家の家元邸がある。静寂の中に風情ある景観を醸し出している。 |
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<百々橋の礎石>(「どどばし」上左画像)
この石は、応仁の乱(1467〜1477)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の礎石の一つである。
百々橋は当地を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約7.4m、幅約4m)で、橋名は、応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられる。
応仁の乱の際、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。
古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、昭和38年(1963)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方々のご尽力より、橋材は一時、室町小学校で保管された。
その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されたが、橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺橋として当地に遺された。
<報恩寺梵鐘>(上右画像)
報恩寺には平安時代鋳造の名鐘(重要文化財)がある。この鐘は「撞かずの鐘」といわれ、悲しい伝説がある。
昔からこの附近一帯の織屋では朝夕に鳴る報恩寺の鐘の音が一日の仕事の初めと終わりの合図であった。ある織屋に仲の悪い丁稚と織女がいたが報恩寺の夕の鐘が幾つ鳴るかについてかけをした。丁稚は八つといい織女は九つと言い争った。悪賢い丁稚は寺男に頼み込んで今夕だけは八つで止めてほしい願いを約束させた。何も知らない人のよい寺男は、簡単に引き受けてしまったのである。
さて夕になり鐘は鳴り始めた。丁稚と織女は一つ二つと数え始めたがどうしたことか鐘は八つで終わってしまった。百八煩悩を除滅することを願って、撞くので百八が基準であり、十二分の一の九つが正しいのである。十二分の一、六分の一、四分の一、二分の一等に分けて撞くこともある。
かけに負けた織女は惜しと悲しさのあまり、鐘楼にて首をつり自殺するに及びmその怨霊のたたりが鐘を撞くと不吉な事が生ずるので厚く供養して菩提を弔い、朝夕に鐘を撞くのを止め、除夜と寺の大法要にのみ撞くようになったというのである。除夜に参詣の皆様には一つゞつ鐘を撞いて戴いている近年である。
<報恩寺石橋>(下2枚画像)
小川の名残を伝える石橋が残っている。橋は擬宝珠勾欄付の貴重なものである。橋の下には川はないが、かつての面影を偲ぶことができる。 |
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報恩寺を過ぎ、小川通は上立売通でぶつかる。そこで左折しすぐ右折する。右折した角に小川公園がある。(下左画像) |
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ここは足利幕府9代将軍足利義尚(よしひさ)の小川御所のあった所である。先ほど通り過ぎたところは御三軒町だから、ここに管領家やその家臣が住んでいたことになる。時代が時代ならとても散策などできるところではない。 |
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中立売通を通り過ぎる前に、歴史的意匠建造物になっている片岡邸の千本格子の美しさをカメラに収める。(上左画像)右画像の家も情緒ある建物である。 |
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昼になってのでここら辺りで昼食をと思っていたら、『「太郎」”ブリカマ塩焼き膳”』(上左画像)の表示が目に入る。早速入る。蔵を改装した店と言うことであった。入口手前のちょっとした空間に庭を造り(上右画像)、入口横には昔懐かしい足で回すミシンが置いてある。(下右画像)店内は蔵の中を改装したので広くはないが、いい雰囲気が漂う。地酒も置いてあったが散策の途中でもあるので飲むわけにもいかない。サッと「ブリカマ塩焼き膳」が出てくる。焼きたてで美味しいこと。ブリは今は寒ブリの季節、一段と美味しい。ご飯も美味しい。ご飯はおかわり自由。これもありがたい計らいである。どこの産の米なのか聞き忘れたが銘柄だけではない、炊き方が素晴らしいのだ。
デジカメのバッテリーの容量が不足しているので充電してもらう。食事時間だけの充電では不十分なので、食事後、しばし店に居させもらう。住所は「京都市上京区小川通中立売下ル下小川町189-2」、店名は「太郎」である。(京都ブライトンホテルの裏側(南西側)にある)なぜ「太郎」と名付けたか伺ったところ、小さい時から「太郎、太郎」と呼ばれていたからということであった。とても感じがいい店である。この辺りを通るときにはまた寄りたいと思った。「太郎」のますますの発展を祈っています。 |
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下長者町通との交差点角にある近畿農政局の敷地内に豪商茶屋四郎次郎邸跡の碑がある。ガラス製品の「ほる久あーと」も町の景観に合わせた造りである。小川通をさらに南下する。とある家の塀の前に人目をひく像がある。 |
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二条通との交差点附近にも趣のある建物がある。 |
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押小路通との交差点角に、閑院址、豊臣秀吉妙顕寺城跡がある。
<閑院址>(上左画像)
ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸であったところである。当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
また高倉天皇の時代(1161〜1181)大内裏が甚だしく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。以来、後深草天皇に至る9代90余年間里内裏になっていたが、正元元年(1259)5月に火災で焼失した。
閑院の南殿にて月前松を詠める |
いまはまた世々をかさぬる 庭の松 ふりてぞみゆる秋の夜の下 |
順徳天皇
閑院があった土地付近はのちに豊臣秀吉の妙顕寺城が建てられる。
<豊臣秀吉妙顕寺城跡>(上左画像)
この附近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させて、あとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住し京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
豊臣秀吉妙顕寺城跡をあとにする。すぐ御池通の大きな交差点と出会う。ここで小川通の散策は終わりとする。 |