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平安京開設時の西洞院大路に当たる通り。この通りに沿って西洞院川が流れ、この流れを用いて衣服を染める職人が多く住んでいた。また、西洞院紙と呼ばれる紙も名産として有名であった。
四条通から西洞院通に入り、北へ進む。六角通との角に「柳の水」の碑がある。 |
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<柳の水>
この水は、地下300尺の湧き水で害はない。このあたり一帯の水は、その昔、千利休・織田信長の次男で織田信雄がお茶に利用した水です。(上左画像)
この柳水町あたりの地は、平安時代末期には崇徳院の御所があった所で、「今鏡」に「崇徳永治元年新院十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給ふ、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。また、近世初期には、織田信長の子、信雄の屋敷になっていたようで、「雍州府志」は「在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳の水、千利休専賞此水点茶、故茶人無不汲之」此水至って清冷なり、千利休此水を沸してもっぱら茶の水とす。町名は、寛永14年(1637)洛中絵図に「柳水町」とみえ、その後、変化はない。なおこの邸跡は紀州徳川氏の京都屋敷となった。(上右画像) |
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御池通との交差点を目指して更に北上する。軒先のちょっとした飾りに心和む。御池通の大きな交差点にさしかかる。御池通を越すと御金神社がある。御金とは珍しい名前の神社だと思い立ち寄る。 |
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<御金神社>
伊邪那岐、伊邪那美、御二柱神の皇子にして、金山毘古命を奉る五元陽交(天の位)の
第一位の神で金乃神、金乃類を司り給う神で、神は民家にあって密かに祭祀せられて
いたが、明治16年(1883)今の名を附して社殿を建立し、がんらい金神様の愛称で親しまれ、氏子と崇敬者で祀られるようになった。
. 鉱山、鉱物の神として人間の営みの中で用いられる全ての金属類、昔は鏡や刀剣類の武具、農耕器具としての鍬等、現在では鉱工業、農産業の大型機械から家庭の道具類や金属類、全てに亘り、特に通貨として用いられる金、銀、銅の御金を護り給う事から、近年は資産運用の神として証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、また旅行中の無事安全をも護り給う大神として、広く崇められています。金属類を護り給う神を祭る神社は国内唯一です。 |
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薬師如来像は、伝教大師(最澄)が「一刀三礼」(1回刻むたびに3回拝む)の礼を尽くして彫った薬師仏七体のうちの一体。今では延暦寺、この薬師院と二体だけしかないという。像は当時の美濃国(岐阜県)の医徳堂に安置されていたのを織田信長の勧請で薬師院に移されたという。
<こぬか薬師の名の由来>
鎌倉時代の寛喜2年(1230)の冬、疫病が大流行し、命が奪われた。当時の薬師院の住職の夢の中に本尊の薬師如来が現れ、「一切病苦の衆生、わが前に来れば諸病ことごとく治癒するであろう。早く来ぬか(来なさい)、来ぬか」と告げた。住職は大変感激し、世間にこのお告げを広め伝えた。すると京都はおろか、遠い国からも参拝者が訪れ、参拝者の疫病諸病が消えたそうです。それ以来、人々はご本尊の薬師如来を「不来采薬師」「こぬか薬師」と呼ぶようになった。
また一説によると、この辺りの女性は鹿子(かのこ)髪を結う人が多かった。その女性達に信仰が厚かったことから鹿子薬師、それが訛って「こぬか薬師」となったそうです。 |
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丸太町通を越すと、茶懐石の老舗「柿傳」がある。 |
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柿傳から少し北に行くと麩嘉(ふうか)がある。麩嘉は、代々禁裏御用を務める生麩の店である。この辺りは地下水に恵まれていることから生麩作りが行われている。 |
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民家の佇まいにも生活の匂いを感じる。 |
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上長者町通を越すと長徳寺がある。寺の前に、「茶家山田宗?出生之寺」の石碑が立つ。山田宗?(やまだそうへん)は、江戸時代前期の茶人で宗?流茶道を興した茶人。彼は忠臣蔵事件の際に大高源五に吉良邸茶会の日を教えた人物として知られている。 |
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<大峰寺趾>
一条戻橋に近いこの地は、古くは大峰野と呼ばれ、平安時代には、大峰寺と称する寺院があったところである。
大峰寺は、大峰殿とも呼ばれ、大和国(奈良県)吉野の大峰山の名を採った山伏修験者の道場で、当時は広い寺域に幾つかの坊舎が建てられ、多くの修験者で賑わったと伝えられている。しかし、その後寺は荒廃し、現在では石塔を残すのみとなっている。
この石塔は、花崗岩製の高さ2m余ある巨大な宝塔で、役行者の塚、又はその法孫日円の塚ともいわれている。また、一説には、三条天皇の中宮藤原妍子が、万寿4年(1027)9月に没し、当時の前野で火葬されたことから、その供養のため建てられた火葬塚とも伝えられている。なお、この付近は現在大峰図子町と呼ばれ、当時の由緒を今に伝えている。 |
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今出川通に出て、西洞院通の散策を終える。その手前に官休庵がある。武者小路千家家元邸である。
<官休庵庭園>
官休庵は三千家の一つ、武者小路千家の祖、一翁宗守が寛文7年(1667)に讃岐(香川県)高松藩松平家の茶堂を辞し、官を退いたときに建てたと伝えられる茶室である。創立後3度の火災に遭ったが、そのつど再建され、明治14年(1881)にほぼ現在見られる姿となった。
敷地内には官休庵の他に半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵などの茶座敷があり、様々な方法で利用されている。
露地は飛石やつくばいを巧みに配置し、各茶座敷をつなぐとともに、茶座敷からの鑑賞にも対応する造りとなっている。
また内露地と外露地を結ぶ「編笠門」と、この門の雨落の仕切に並べてある池田炭は、斬新なアイディアで、本庭園の中でも特に著名なものである。本庭園は、創設以来の伝統的な手法と、斬新なデザインを合わせ持つ点で貴重なものである。 |