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元誓願寺通は、平安京の今小路にあたる。元々、誓願寺があったが、豊臣秀吉の京都大改造で誓願寺は移転した。そこから、この通りは、元誓願寺通と命名される。
町家や西陣の機業関係の店が点在する静かな小路である。 |
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七本松通から元誓願寺通に入る。織物関係の店や町家を見ながら東に進む。 |
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智恵光院通の手前にある「壹好庵」(いっこうあん)の着物を模したのれんが目につく。織物の町らしい。 |
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智恵光院通、大宮通を渡る。興徳寺や町家を眺める。 |
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油小路通との角、フェンスの中に「此付近慶長天主堂跡」の石碑がある。
<慶長天主堂跡>
この付近に、慶長9年(1604)頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
しかし、慶長17年(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。
小川通を渡り更に東に進むと、「此付近狩野元信邸址」の石碑が立っている。狩野元信は、室町時代の絵師で、狩野派の基礎を築いた人物である。元誓願寺通はここで突き当たりになっており、この散策は終わりとする。 |