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松原通は東西路の一つで、東は清水寺門前から、西は佐井西通までの長い通りです。清水寺門前から東大路通までは松原通と呼ばないで清水道と呼ばれている。
<松原通(五条大路)>
松原通は平安京造営時には「五条大路」であり、幅八丈(24m)の大通りだった。
平安時代の中頃には人口も多く重要な通であったと思われる。源氏物語に書かれている五条大路は下町っぽい描写で、源氏と夕顔の出会いが書かれている。また松原通は八坂神社と稲荷大社の境界で北側が八坂神社の氏子、南側が稲荷大社の氏子となっている。
かつての五条大路は清水寺への参道であった。五条の石橋と言われ鴨川の中州には大黒堂があった。平安時代の末期には、五条橋を渡った六波羅の地に、平家一門の屋敷町が形成され五条大路は戦略的にもますます重要な通りとなった。牛若丸と弁慶の出会いも実は現在の松原橋なのである。
松原通の名前の由来は、室町時代末期、荒廃した五条室町に「玉津島神社(歌人藤原俊成の屋敷跡)が建てられていて、その松林が美しく「五条松原通」と呼ばれていたが、やがて五条がとれ松原だけの名称となったようである。
松原通は旧五条大路だけあって、多くの行事や名所旧跡が残されている。稲荷祭の御輿巡行は現在も行われており、祇園祭の山鉾巡行も昭和30年(1955)まで松原通を通っていた。有隣学区を東から歩いていくと、弘法大師ゆかりのお不動さんこと「不動寺」、祇園祭の山鉾巡行の一里塚がある「祇園床」、朝顔の墳・夕顔の墳、間之町を北へ行くと貞門派俳諧の始祖、松永貞徳の屋敷跡「花咲神社」等がある。 |
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清水道が東大路通と交差する地点から松原通の散策をスタートする。一路西に向かう。しばらく進むと六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)がある。寺の前には「六道の辻」と刻まれた大きな石柱が立っている。
ここは、お盆の精霊迎えに参詣する寺として知られ、臨済宗建仁寺派に属する寺である。平安時代の延暦年間に開創されている。「六道」とは、「六道輪廻」の世界のことで地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という、6つの世界をさしている。煩悩により極楽往生できないと6つの世界(六道)迷っているそうです。この6つが集まったところが「六道の辻」というわけです。
「六道の辻」の石柱の近くに「小野篁卿舊跡」(おののたかむら)と刻まれた石碑が立っている。境内には、小野篁が冥土への入口にしたといわれる井戸があり、閻魔堂には、小野篁作の木像「閻魔大王像」や小野篁像も祀られている。 |
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六波羅蜜寺へ行く三叉路の角には「六道の辻」の石標が立っている。右手には六道の辻地蔵尊西福寺の看板があり、弘法大師御作 六道の辻地蔵尊」と記されている。 |
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鴨川に出る前に松原通と交差している宮川町通(宮川筋)、石畳を着物姿の女性が歩き、和の空間を醸し出している。 |
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鴨川に架かる松原橋を渡る。この辺りは平安時代には五条通にあたり、当時の五条の橋は、現在の松原橋辺りになる。あるいは鴨川には橋がなかったとも推定されているようだ。麩屋町通と交差する角に明王院がある。
<明王院>
青連山と号し、真言宗東寺派の寺で、俗に松原不動という。朱雀年間、道観大徳(どうかんだいとく)が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の石仏不動明王を安置してから、現宗に改まった王城鎮護のため、経巻を納められた平安京四岩倉の一で、南岩倉と言われた。
天暦年間、賀茂川氾濫に遭い、堂舎が悉く流没し、一時、比叡山の苔莚法師(たいえんほうし)によって、再興されたこともあった。豊臣秀吉は、ここから、苔むした本尊不動明王を感得し、聚楽第におさめたところ、夜々、霊光を放ったので、霊験に感じ、ここに堂舎を営み、これを再び奉安したという。 |
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金銀箔粉箔紙の製作所がある。店頭に飾られた金箔の置物などを見入る。 |
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<平等寺・因幡薬師>(いなばやくし)
長徳3年(997)、因幡(現在の鳥取県)の国司だった橘行平(たちばなのゆきひら)が任を終えて帰京の途中、夢でお告げに従って、因幡賀留津(がるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられているこの霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰をを受け、承安元年(1171)には高倉天皇から「平等寺」と命名された。なお、この寺の起こりは「因幡堂縁起」(国立博物館蔵)に詳しく書かれている。
堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一本造りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。 |
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<丹波国亀山藩京屋敷跡 中野之町亀山稲荷神社>
江戸前期に当地は、間口11間,奥行30間の芸州広島藩42万石,浅野氏松平安芸守の京屋敷で、その後1730年頃,丹波篠山藩5万石、形原松平紀伊守信岑の京屋敷となとる。信岑は寛延元年(1748)丹波亀山藩5万石に転封になる。以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果した。
新政府となった慶応3年には京都市中取締役を務め、明治2年(1869)版籍奉還の時に藩名を亀岡と改称した。明治3年(1870)2月当京屋敷は民有地となる。明治7年(1874)にはこの京屋敷3棟は,稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎にも使用された。明治25年(1892)、京都市第二高等小学校校舎の建設時まで存続した。
亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧大明神と花月大明神である。昔は両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講も存した。明治以降は、中野之町が奉祀る。大正5年(1916)の旧亀岡藩士族有志の碑も存する。往時より正月祭、初午祭、火焚祭を執行する。その霊験は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満に灼かと伝える。 |
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松原京極の商店街に入ると急に道が狭くなる。右手(北側)に光圓寺があり「親鸞聖人御入滅之地」と刻まれた石碑が立っている。
やがて五條天神宮が見えてくる。義経記によれば、この場所が、牛若丸と弁慶の初対面の場である。
<五條天神宮>
祭神は大己貴命、少彦名命、天照大神を祀る。
社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、大和国宇陀郡から天神を勧請したのが当社の始まりといわれる。当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」改めた。
創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門の変で社殿は焼失した。現在の社殿は近時の再建である。
当社は古来、医薬・禁厭(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。 |
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大宮通に出たところで松原通の散策は終わる。清水道からの長い道のりであったが、商店街の人々との出会い、義経と弁慶の出会い、また、すだれなどの専門的な店など興味深い散策であった。 |