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1580年頃から大規模に進められた、豊臣秀吉の京都大改造後に開かれた通りで、三条通近辺に袈裟衣を商う店が多くあったことから、衣棚通と呼ばれるようになった。 |
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丸太町から衣棚通に入り、南に進む。小雨が降り続く天候で、人通りは少ない。衣棚通に入ってすぐ「人一人ハ大切ナリ」と書かれた同志社大学大学院総合政策科学研究所の看板とのれんが目に入る。 |
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「伊織」と書かれた短く小さなのれんが目に入る。何の店だかわからなかったが、「亀屋伊織」といって干菓子(水分が少なく日持ちの良い菓子)の老舗である。現代風の店とは縁遠い店構えで、しばし足を止める。 |
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御池通の大きな通りに出る。しばらく進むと道が急に狭くなる。いわば路地という感じである。 |
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<廣野了頓邸跡>
江戸時代初期の地誌である「雍州府志」(ようしゅうふし)によると、足利家代々の従臣である廣野家は、将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有した。その後、安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓は、剃髪してこの地に茶亭を構え、茶道を広めた。
当寺、豊臣秀吉は、京へ入洛した折に了頓邸を訪れ、茶を点じた了頓はその縁で280石の知行をあてがわれた。
また、山科言経(やましなときつね)の日記「言経卿記」にも、文禄3年(1594)5月11日に徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、言経、古田織部らも同席したことを記している。了頓は、江戸時代に入って、徳川幕府からも知行400石を受け厚遇されて明治に及んだ。
邸地は了頓の意志により、表門から裏門までの一般の通行が許され、表門は将軍御成門と称した。かつてこの付近には清水が湧き井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があった。了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した廣野了頓に由来して今に伝えられたものである。
衣棚通の散策は、六角通で行き止まりとなり、ここで終わることとする。 |