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東は大宮通から西は北野天満宮東門前の御前通までの通り。織物や機業の町家が点在する静かな佇まいが印象深い。北野天満宮の東の御前通から歩き始める。 |
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五辻通に入るとすぐ左手(北側)に「やきもち天神堂」の大きな看板が目に入る。その前を通り抜けて東に向かう。通りは車が1台通るくらいの幅で、辺りは静かな雰囲気が漂っている。「しみおとし」「くみひも」などののれんをかかげている町家が所々にある。 |
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左手に千本釈迦堂の参道がある。本堂(釈迦堂)は、京都市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。
<大法恩寺(千本釈迦堂)>
瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。
承久3年(1221)藤原秀衡の孫、義空上人が、猫間中納言光隆の家卒、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりといわれている。当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。
現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。
また、毎年、2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。
<北野経王堂願成就寺>
このお堂は、足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)11カ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて兵を挙げたが(明徳の乱)逆に義満により内野の原に於いて討滅せしめられた。
将軍義満は、その翌年、叛いたとはいえかつての功労武勲を思い氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、一千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引き続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名付け毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。
なお、応永期には大部の経典「北野社一切経五千五百余巻」(重要文化財)を書写奉納せしめた。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に寛文11年に解体縮小されて小堂となり、仏像並びに一切経五千余巻、義満筆「経王堂額」什宝遺物の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿(収蔵庫)に保存されている。(重要文化財)
又解体された遺構の木材は当山に運ばれ復元、縮小されたのがこのお堂である。堂の右前に、山名氏清の碑が建てられている。
<おかめ塚由来>
鎌倉時代の初め西洞院一条上るの辺りで長井飛騨守次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいた。その頃、義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本尊を建立することになり、次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいったが、次ほどの名人も”千慮の一失”というべきか信徒寄進の四天柱の一本を誤って短く切り落としてしまった。心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し、「いっそ斗供(説明文は「木+共」の字であった)をほどこせば」という一言。この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がった。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、この日を待たずしておかめは自ら自刃して果てた。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれ聞こえては……「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、誰言うともなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになった。
現在、京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の特により、”家宅の火災除け”家内安全と繁栄を祈って始められたものです。また、おかめの徳は、”災いを転じて福となす”というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっている。
なお、昭和54年(1979)の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ”おかめ信仰”の輪が一層広がっている。 |
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織物や機業の看板を掲げている町家を見ながら東に歩く。 |
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千本通に出る。左手に老舗の「五辻の昆布」がある。その右側が五辻通になる。京機(みやこばた)の店があるのでしばし眺める。手織りの機械というか道具があり興味深い。
しばらく歩くと「五辻殿址」がある。ここは後鳥羽上皇の御所(院御所)があった所である。 |
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虫籠窓のある町家、中屋根に立てられている鍾馗さん。屋根を見上げながら見ていくと所々で見かける。 |
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法華宗真門流総本山の本隆寺。江戸時代に大火があったが、奇跡的に残り不焼寺(やけずのてら)という異名を持つようになったという。祖師堂のそばにある松の木は「夜泣き止め松」と呼ばれている。この木の樹皮を枕の下に敷くと夜泣きが止むと伝えられている。訪れた時にはサルスベリがきれいに咲いていた。 |
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春に訪れたときの本隆寺。桜が美しい。 |
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本隆寺の向かい側に鳥岩楼があり、屋根に掲げられている看板が大きい。やがて五辻通は大宮通に突き当たる(下左画像)。ここで五辻通の散策は終わる。振り返って見たところが下右画像になる。 |