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平安京開設時の堀川小路に当たる通り。平安京開設時の物資輸送用水路として利用された堀川の両側に通された通りで、東堀川通、西堀川通と呼ばれていた。五条堀川付近には丹波から桂川を経て搬送されてきた材木の市があり、多くの材木商人が住んでいた。
現在の堀川通はかなり広い通りになっており、車の往来も多い。それは第2次世界大戦時に沿道の家屋を強制的に疎開させ、防火帯を作ったためである。「堀川」という名の川があるが、水は流れていない。 |
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松原通から堀川通に入り北に進む。大きな道路で車の往来が大変多い。
<北来地蔵菩薩>
ここには松原通堀川西入の北門前町及び来迎堂町の地蔵菩薩像二体が祀られている。北門前町は松原通の南の町内で、町名は日蓮宗の大本山本圀寺の北門前に位置することに由来する。また来迎堂町は松原通の北の町内で、町名は天仁2年(1109)にこの地に創建された寺院である来迎堂に由来する。両町とも天明8年(1788)の大火で罹災したが、その後、町内の人々の深い地蔵信仰に支えられてつくられたのが、この地蔵菩薩像であるといわれている。
これらの地蔵菩薩像は近年町内の古老の家で祀られていたが、堀川通の暗渠整備に伴い町内の人々によって地蔵堂が建設され、ここに安置された。
地蔵菩薩は北門前町が立像、来迎堂町が坐像であるが、いずれも江戸時代につくられた木彫の貴重なものである。
なお、北来の名称は北門前町と来迎堂町の頭文字をとったもので、昭和15年(1940)から一般にこのように呼ばれている。 |
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御池通との交差点に堀川通の大きな表示がある。 |
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店先の展示物にしばし足を止める。外国人観光客も何人か覗いている。 |
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徳川慶喜の大政奉還が行われた二条城。慶長8年(1603)に築城された平城。城全体が国の史跡に指定されており、二の丸御殿は国宝になっている。その他多くの建造物や障壁画が重要文化財になっている。また世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。城というより御殿・壮大な邸宅という感じもする二条城である。 |
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<福井藩邸跡>
油小路二条下る西側(現京都国際ホテル)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった所である。
福井藩は、慶長5年(1600)、徳川家康の二男結城秀康が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以後は32万石。幕末に松平慶永が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に、公武合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。
<橋本左内寓居跡>
橋本左内は福井藩士で幕末の志士。安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して活躍した。
左内の号は景岳。福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学・医学を学び、藩主松平慶永に認められて藩学明道館の幹事となった。
1857年の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。折から幕府の将軍継嗣問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開、左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年26歳。 |
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<伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫>
江戸初期の漢学者、伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称する。現在の建物は明治23年(1890)に遺構をもって再建したもので、二階建て、土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のものである。
仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。父・了室は篤学の人であり、母は連歌師里村紹巴(しょうは)の孫にあたる。仁斎は初め朱子学を修めたが、後にこれを排して古義学を唱え、寛文2年(1662)から宝永2年(1705)79歳で没するまでの約40年間、私塾を開き教授に努め、その門下生は三千人を数えた。長男・東涯(とうがい)は父の学問の紹述に努めたので、仁斎、東涯の学派を堀川学派、古義学派と呼んで名高く、全国各地から堀川の流れを慕って学徒はここに集まった。子孫は永く学派を伝え、寛文2年(1662)から明治39年(1906)に至るまで実に244年に及んだ。
<京都市指定保存樹 クロマツ>
古義堂は伊藤仁斎が生家に創設した儒学の私塾です。「見越しの松」に仕立てられたこのクロマツは、建物の雰囲気とよく調和している。 |
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<戻橋>
延喜18年(918)、文章博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。
浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けたという。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容姿美しい女子にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。 |
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<晴明神社>
天文博士阿倍晴明を祀っている。清明は、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の六朝に仕え、天文学に通じ、移りゆく星を見て宮中の変革、遠国の吉兆を判断したといわれ、一条天皇の時に天文博士となった。寛弘2年(1005)亡くなったが、その後、一条天皇によって晴明の邸址に当社が創立された。
晴明の邸は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであったが、これを社域とした当社も、その後、度々の戦火によって衰えたままであったのを、近年晴明九町組を中心とする崇敬者によって復興され、年をおって現在の規模になった。
<晴明井>
晴明邸に古より湧き出ていた洛中名水の一つで、諸病平癒の信仰が篤い。流水口が本年の恵方を向いており吉祥水が得られる。なお、此処は茶道三千家の祖千利休終焉の地で太閤秀吉に振る舞ったり最期に自服した茶もこの聖水で点てたものであろう。
<旧一条戻橋>
この欄干親柱は、大正11年(1922)から平成7年(1995)まで実際に使用されていたものです。阿倍晴明とも縁深いゆえ、境内に復元した。現在の戻橋は、晴明神社から南へ100mの処に架かっている。 |
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応仁の乱で細川勝元の東軍と戦った西軍の総大将山名宗全邸跡の石碑を見る。歴史的意匠建造物に指定されている北村徳斎帛紗店はあいにく休店であった。 |
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<大応寺>
金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は9世紀初頭、壇林皇后によって悲田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明2年(1470)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正14年(1586)に虚應(きいん)和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一宇を建立したのが当寺の起こりである。
堂宇は度々火災にあい、現在の建物は文化5年(1808)以後の再建である。本堂内には、本尊として釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。
境内にある織部稲荷神社は当寺の鎮守社で、17世紀初期の織部流茶法の祖、古田織部正が伏見稲荷から勧請したものという。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の信仰が篤い。
本堂背後には後花園天皇の火葬塚がある。 |
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古田織部が建立したと伝えられる興聖寺の門前を通る過ぎると、赤穂義士四十六士の遺髪塔跡の碑がある。
<瑞光院 赤穂義士四十六士 遺髪塔の由来>
元禄15年(1702)12月、赤穂浪士吉良邸に討ち入り本懐を遂げし後、翌年2月4日に義士四十六人が切腹する2日前、瑞光院々主の使僧、宗海禅師は細川・松平・毛利・水野の四家の大名に預けられた四十六人から髷(まげ)の髪をもらい受けた。帰京後、大石内蔵助良隆の遺志により主君・浅野内匠頭長矩の墳墓の傍らに四十六士の遺髪を瓶の器に納めて埋め、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。
この遺髪塔は昭和37年(1962)、当地より山科に移転した瑞光院において現在も祀られている。
<瑞光院>
慶長18年(1613)浅野長政旧蹟地に因州(鳥取県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛が大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。明暦3年山崎家断絶後、第2世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩の内室瑤泉院と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、赤穂浅野家の祈願寺となる。元禄14年3月(1701)、長矩江戸城において吉良上野介への刃傷におよび浅野家は断絶となる。同年8月大石良雄当院に長矩の衣冠を埋め、亡君の石塔を建立し、以後墓参の都度同志密議の処とした。 |
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源氏物語の作者である紫式部と小野篁(たかむら)のものと伝えられる墓がある。小野篁は小野妹子の子孫で、孫に三蹟の一人小野道風がいる。
<紫式部顕彰碑>
紫式部は、藤原為時を父として天延元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼時より学芸に親しみ、穎脱(えいだつ・才能がとびぬけて優れていること)したその才能は夙(つと・早くから)に認められていた。長保元年(999)藤原宣孝(のぶたか)の妻となり、翌年娘の賢子(かたこ)を産んだが、同3年、不幸にも夫を喪った。
寛弘3年(1006)頃、内覧左大臣・藤原道長の長女で一條天皇の中宮として時めいていた彰子に仕え、候名(さぶらいな・中宮に仕えた時の名)を父の官名に因んで式部と称した。式部は侍講(じこう・高貴な方に仕え講義する人)として中宮に漢文学を教授する傍ら、『源氏物語』の執筆に励み、寛弘6年頃、この浩翰(こうかん・広大)な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
寛弘7年頃には、日本思想史の上で希有な虚無的人生観をこめた『紫式部日記』を纏(まと)め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕え、また『紫式部集』を自撰した『源氏物語』は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
歿年については、長元4年(1031)とみなす説が有力である。『河海抄』その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院の塔頭の白毫院(びゃくごういん)の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と傳えているが、この所傳には信憑性が多い。
『源氏物語』は、完成後、9世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、『源氏物語』は続々と各国語に翻訳された。
昭和39(1964)、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
なお、紫式部の居宅は堤第(つつみてい)と言い、平安京東郊の中河に所在した。即ち廬山寺(ろざんじ)のある上京区北之邊町辺りである。
また一人娘の賢子(かたこ)は、後冷泉天皇の乳母(めのと)となり、従三位(じゅさんみ)に叙された。11世紀の勝れた閨秀(けいしゅう・学業に優れた女性)歌人の大貳三位(だいにのさんみ)とは、賢子のことである。(平成元年春 文学博士角田文衛より引用) |