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平安京開設時の東洞院大路に当たる通り。応仁・文明の乱により荒廃したが、1590年頃から大規模に進められた、豊臣秀吉の京都大改造により再整備された。洞院とは、天皇が退位した後の住居を意味し、この辺りに高陽院、高倉院、花山院等があったことによる。 |
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丸太町通から東洞院通に入り、一路南下する。町家や町家風に建てられた店舗、小さな祠などが点在する通を進んでいくと、場違いのような近代的な建物が見えてくる。こどもみらい館である。外観だけでも何とかならなかったのだろうか、と思ってしまう。 |
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御池通の広い通にさしかかる。ここは車が行き交い、ビルが建ち並ぶ別世界のような雰囲気である。 |
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<初音の庭 「地の響」>
「初音の庭ー地の響」は地のいのち、緑のいのち、水のいのちが共に響きあう庭。
伝統技術をもとに、土・珪藻土・古紙・貝殻・藁(わら)などで新しく構成された土塀風彫刻を中心とする環境芸術作品です。
京都南ロータリークラブから寄贈された「水琴窟」を配し、元初音中学校の御影石や古瓦も活かしたやすらぎの空間。「まちなかなお庭ー心の庭」としてご利用ください。
こども相談センター パトナ
環境芸術家 八木マリヨ 作
<水琴窟>
水琴窟は、地中に埋められた甕(かめ)に共鳴して響く水滴音を楽しむ仕掛けです。江戸時代の庭師が考案したと言われ、日本庭園における最高技法の一つとされている。
<「翔びたとう初音」記念碑>
「翔びたとう初音」とは、京都市立初音中学校が平成5年(1993)3月に閉校した際の記念事業の表題である。124年の歴史に幕を閉じるは断腸の思いであったが、この機を新たな出発と捉え、比翼を伸ばす発展を祈念した言葉である。
平安時代後期、以仁王の高倉宮御所はこの地にあった。室町時代に建てられた曇華院は栄枯盛衰の末、明治4年嵯峨に移り、境内の「初音の森」は「初音」の名称の起こりである。初音校は明治2年京都の町衆の力により64の番組小学校の一つとして柊町にて開校し、明治26年(1893)、この地に移転する。初音校は明治天皇御臨幸や大正天皇侍従御差遣等の歴史のある小学校であったが、昭和18年(1943)初音国民学校高等科(女子)設置に伴い学童の通学は、南は日彰校へ北は竹間校へと分かれた。昭和22年(1947)初音中学校となるも生徒減少により冒頭の如く閉校し隣接中学へ統合、その後京都御池中学校に継承され今日に到る。 |
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<平安京東洞院大路・曇華院跡>
平安京の三条大路北・東洞院大路東に位置するこの地は、平安時代には以仁王の高倉宮、室町時代から明治初年にかけての約500年間は、禅宗の尼寺曇華院が所在した地域である。
昭和50年(1975)、中京郵便局の新築に際して発掘調査が行われた。その結果 曇華院のもと推定される柱穴や、多数の瓦・土器などとともに、平安京の東洞院大路の側溝と認められる溝が発見された。
溝は、互いに接して3本が確認されているが、そのうち最も残りの良いものは、ほぼ真北方向にむき、発掘地全体に約50mの長さで延びていた。溝の幅は約4尺(1.2m)で、「延喜式」に記載された大路の側溝の幅に一致している。溝の内側には、築地塀の痕跡と考えられる高まりをはさんで、細い溝が作られていた。
この溝の時期は、出土した遺物から、中世(溝3は近世)と思われるが、平安京の条坊の溝が、これほどの長さにわたって発見された例は稀であり、きわめて貴重な文化遺産とみなされる。
平安京のプランは、大路、小路をもって区画され、大路の幅は8丈(24m)、小路は4丈であり、路にかこまれる1区画は町と呼ばれ、40丈四方と決められていた。
今回の調査などで検出された溝によって、この附近の条坊を復元すると、現在の街並みが平安京の条坊のおもかげを良くとどめていることが理解される。 |
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四条通の手間でビルの工事をしていた。工事箇所を取り囲んでいる看板には、祇園祭の山鉾の図が描かれている。京都らしいなと思わずカメラを向ける。やがて四条通に出る。ここで東洞院通の散策は終わることにした。 |