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東西の本願寺の北側を通り島原までを散策する。この花屋町通で最も印象深いものは、島原にある揚家建築の角屋である。
<角屋>
角屋(すみや)は江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(あげや・現在の料亭)で、明治時代にお茶屋業に編入された後も、昭和60年(1985)まで営業が続けられた。
島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、更に寛永18年(1641)にこの地に移された。正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから島原と呼ばれるようになった。
島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場であった。
角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年(1952)に重要文化財に指定された。また、円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の作品を多く蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。
江戸中期には、俳檀が形成されるなど文化サロンとしての役割も担い、また、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。
こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に伝える角屋は、現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されている。 |
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烏丸通から東本願寺の北側の花屋町通に入る。東本願寺の白壁、それに続くなまこ壁を見ながら西に向かって歩く。なまこ壁の建物は何だろうと門の警備をしている人に伺うと本願寺の倉庫だそうである。白壁の西側近くに、控所を両脇にもつ唐破風の内事門がある。 |
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堀川通に出る。交差点を渡ろうと待っていると、堀川通に面したお店の北側になんとチューリップの花が咲いてるではないか。今は1月。店内から眺めることができるが、通行人にも見えるようになっている。 |
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堀川通を渡ると西本願寺の北端に出る。その角に太鼓楼がある。
<太鼓楼>
現在、本願寺境内の北東隅に建つ太鼓楼は、旧来より時を報せたり、法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。時を報せる太鼓は、山科本願寺において使用されていたことが知られており、江戸時代初期に境内の南東隅に太鼓を吊した建物があったようである。その後宝暦10年(1760)の親鸞聖人五百回忌に際して境内の大規模な整備が行われており、現在の太鼓楼はこの頃に建立されたものと考えられている。なお寛政元年(1789)に第十七代法如上人の時に修復が行われ、この修復の時に新たな太鼓が備えられりこととなり、現在は2つの太鼓が残されている。なお古い方の太鼓は、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、奈良の西大寺の遺品と言われている。
新選組は、「池田屋騒動」(元治元年<1864>)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、屯所を壬生から本願寺に移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していた。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺のなかに本拠を移すことによって一石二鳥の効果をねらったものであった。
新選組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃を行ったり、乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日であったそうである。新選組の活動期間は6年ぐらいであり、大部分が暗殺されていった中、結成時からの元隊士島田魁(しまたかい)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生お念仏を喜びながら太鼓番をしたという話が伝わっている。明治6年(1873)、北集会所は姫路市の(亀山)本徳寺に一部移設されたため、現在の本願寺に新選組の足跡を見るのは太鼓楼だけである。 |
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西本願寺の北側を一路西に向かう。大宮通までこの塀が続いている。 |
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大宮通を渡ると島原商店街が続いている。今までとはがらりと雰囲気が変わる。個人商店がずらりと店を並べている。一並びの建物の角にひときわ目立つ木造3階建ての家(店)がある。店の人にいつできたのですか?と訪ねると大正14年(1925)という返事である。もう80年以上経っていることになる。店のご主人の父親が建てたということ。今なら木造3階建ては珍しくはないが、大正14年に木造3階建ては時代の先端建築ではないかなと感心する。 |
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<島原>
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。正式地名は「西新屋敷」という。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。
しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」(すみや)、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」(わちがいや)、それに島原入口の「大門」、これら3箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
<島原大門>。
開設された当時の島原の四周は掘と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていた。その後、享保17年(1732)に西辺にも門が設けられた。東辺北寄りの門は、明和3年(1766)道筋と呼ばれていた道の東端である現在地に付け替えられた。
東辺の門は、享保14年(1729)には、冠木門(かぶきもん)であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門へと変更された。嘉永7年(1854)8月の大火では、島原の東側は大半が類焼しており、このとき門も焼失したと考えられる。大火後、門は再建されたが、慶応3年(1867)5月には、再び建て替えられた。これが現在の大門である。
この大門は、本柱上の屋根の他に後方の控柱(ひかえばしら)上にも小屋根をのせた高麗門で、前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えており、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録された。 |
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島原大門を抜けると静かな通りが続いている。 |
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<角屋>(国指定重要文化財建造物)
角屋は、寛永18年(1641)の島原開設当初から連綿と続く揚屋(今でいう料亭で、江戸期京都では民間最大規模の宴会場)です。揚屋は江戸の吉原になく、京島原と大坂新町にあった。揚屋は置屋から太夫(傾城(けいせい)の最高位)や芸妓よ呼び、遊宴をするところです。
島原の角屋をはじめとする揚屋は、遊宴のみならず、和歌、俳諧の文芸の席やお茶の席があり、文化サロンとしての役割を果たしていた。したがっていわゆる遊廓の店でなく、外観の格子造りも、京の近世初期の町家の形を遺しており、吉原の牢屋のような格子造りではない。
幕末ごろは、新選組の局長クラスの宴会があり、また隊士が勤王派を探索に来たが、ここでは池田屋のような乱闘はなかった。因みに芹沢鴨は、文久3年(1863)9月18日に角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席し、その夜屯所で暗殺された。 |
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角家の前に「長州藩志士 久坂玄端密議の角屋」の石碑が立っている。
<東鴻臚館址>
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。
白梅や 墨芳しき 鴻臚館 与謝蕪村 |
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花屋町通は、島原住吉神社の先で京都中央卸売市場で遮られる。ここで今回の花屋町通の散策を終わることにする。
<島原住吉神社>
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、神社株を持たない当社は廃社となり、祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
しかしながら、地元の崇敬心は篤く、明治36年(1903)には、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興した。ただし、現在の狭い境内地となリ、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされた。
平成11年(1999)には、社殿、拝殿を改修のうえ、社務所も新築し、境内の整備がなされた。同13年には、懸案の社名を島原住吉神社と改称し、旧に復することとなった。
<幸天満宮>
住吉神社の境内社である幸天満宮は、当初揚屋町の会所に天神の祠があり、それが、享保19年(734)当所に遷座したものである。延享5年(1748)より、筑紫太宰府天満宮にならい、鷽替の神事が営まれるようになった。それは、色紙、短冊などを持ち集まり、「鷽を替えん」と言いつつ取り交わす甚だ興あるもので、諸客の見物で賑わったが、明治以降は完全に廃れてしまった。
<島原西門>
島原の入口は、当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を立てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在位置に移され、構えも高麗門型となった。
近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)、輪禍によって全壊した。3年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)に再度の輪禍に見舞われて、それも倒壊した。現在は島原西門の由来と往時の形容を刻して石碑が建立されている。 |