|
|
御幸町通に掲げられていた説明には、『1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。その名の由来は秀吉が禁裏御所に参内するときに利用したことからとも、天子が御幸になることからともいわれている。』とあった。秀吉の時代以降の小路ではあるが、それよりもずっと前からあったような感じを受ける。 |
|
|
|
|
|
五条大橋を東から西へ渡ると牛若丸と弁慶の像がある。寺町通を越して右折する。ここから御幸町通を北上する。 |
|
|
|
|
|
京都市学校歴史博物館の向かい側にきせる専門店「谷川清次郎商店」がある。四条通の交差点を通り越すと、国の登録有形文化財である懐石「近又」(きんまた)が見えてくる。
<近又の由来>
創業享和元年(1801)、初代は近江国の出身で近江屋又八を名乗る。元は麩屋町通六角下る、現在の生祥小学校の地に於て、Θ「近江屋」を開業。当時は近江の国からの薬の行商人たちの定宿であった。資料としては、享和2年壬戌三月付、寄宿仲ヶ間発行の「定」や、家紋入りの提灯などが残っており、それ以前から営業していたと思われる。
明治31年(1898)7月25日、近江屋又八の名称から「近又」と屋号を改め、明治35年(1902)、現在の地に移った。
懐石料理を中心に、木造2階建、紅殻作りの玄関、竹の穂垣(時雨の二段垣)の施された庭、傘天井による総檜造りの風呂など、京の典型的な町家造りの建物として営業している。 |
|
|
|
|
|
「近又」を越すと錦小路通と交差する。錦市場が左右に開け、大勢の人で賑わっている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
御幸町通の左右の町家には興味を惹くものがある。1階の屋根の上に安置されている小さな祠のようなものは何でしょうか?聞くそびれてしまう。軒下というのか障子の前のわずかな空間を飾る美意識、どれも感心する。 |
|
|
|
|
|
御池通の大きな道に出る。狭い御幸町通からそれの何倍もある大通りに出ると、別世界にたどり着いたような錯覚に陥る。 |
|
|
|
|
|
純和風、檜造りの木造二階家「柊家別館」が見えてくる。玄関前で、水を打っていた旅館の人と建物などについて話を伺う。
|
|
|
|
|
|
<京都御幸町教会会堂>
当教会は、明治31年(1898)に設立されたアメリカ南メソジスト教会神戸教区の京都講義所が起源である。昭和16年(1941)にプロテスタント各派が合同して日本基督(キリスト)教団を設立したのを機に、翌昭和17年(1942)に京都御幸町教会となった。
現在の教会堂は、大正2年(1913)に建てられた煉瓦造の平屋建てで、背面に講壇を張り出す他はほぼ矩形の平面である。外観は、窓を尖頭形として側面の要所にバットレスを配すなど、ゴシック様式を基調としている。内部は西端に玄関を配し、その上部は中2階として北寄りに階段室を区画する。奥の礼拝堂は広い一室で、天井を張らずにキングポストトラスをみせ、最奥に講壇を設ける。なお、南接建物にある集会室との境には3蓮のガラス入り格子戸が装置されているが、これは上部の壁内に引き込む揚戸となっている。この柱間装置は集会室との一体的な利用を図るために設計されたもので、他にあまり例がない。
当教会堂は、明治末から昭和初期にかけて活躍したW.M.ヴォーリズの初期の教会堂作品である。京都市内に残る数少ない煉瓦造の教会堂建築の一つとして貴重である。 |
|
|
|
|
|
味噌の老舗「関東屋」が見え、丸太町通に出た。ここで御幸町通は終わる。最後に、今まで散策してきた御幸町通を振り返って見た。 |