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平安京の姉小路に当たる通り。姉小路は「あねやこうじ」と読むが「あねこうじ」と読むこともあるようだ。御池通と三条通の間の東西路で、趣のある老舗があり全体的に静かな落ち着いた通りである。 |
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木屋町通から姉小路通に入り、西に向かう。「蕎麦ほうる」で知られる総本家河内屋がある。「「蕎麦ほうる」というのは、「そばぼうろ」のことで、そば粉を焼いた焼き菓子のことである。この姉小路通には風格ある老舗の建物が点在する。柚味噌で知られる八百三(やおさん)もしばし眺める。格子、虫籠窓、のれん、看板等々見ていても飽きが来ない。 |
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京表具の春芳堂、京菓子の亀末廣。「御菓子司亀末廣」と書かれた長い看板に圧倒される。しかも右書きされているし、亀も昔の字体を用いている。長い看板に合わせるが如く間口もかなり広く造られている。のれんも大きく風格を感じる。姉小路通の老舗を代表するような堂々たる偉容である。 |
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烏丸通との角に三條東殿遺址の碑と京都電電ビル西館(旧京都中央電話局・現新風館)がある。
<三條東殿遺址>
現在の三條烏丸交差点の東北に位置する方40丈(約120メートル)の地は、古の三條東殿の遺址のあたっている。
11世紀の初め、ここには伊豫守藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に傳えられた。崇徳天皇の天治2年(1125)、白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。法皇の崩後 鳥羽上皇は、三條東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それは長承元年(1132)7月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子・後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)12月9日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって三條東殿を襲撃、法皇をここから連れさって幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。
その時、武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたという。
このように三條東殿址は、院政時代における政治的文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念されるべき遺跡である。
<京都電電ビル西館>(旧京都中央電話局)
京都電電ビル西館は、当初逓信省の京都中央電話局として、逓信省技師吉田鉄郎の設計、清水組の施工により建築された。工期は大正14年(1925)2月〜同15年9月の第一期工事と、昭和4年(1929)5月〜同6年1月までの第2期工事に分かれる。意匠的には、西面の連続したアーチに特色が見られ、日本における近代建築のパイオニアである吉田鉄郎が、国際建築様式を自己のものとする直前の作品として貴重であり、昭和58年6月1日、京都市登録有形文化財に登録された。 |
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烏丸通を渡ってしばらく進むと右手(北側)に高松神明神社がある。この辺りはかつて高松殿が在ったところである。神社の鳥居左側に「此附近高松殿址」の石碑が立っている。
<高松殿址>
高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた源高明(914〜982)の邸宅で、「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に「姉小路北西洞院東高明親王家」と記されている。
高明の娘、明子は、当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長の室となった。その後、三条天皇の皇子小一条院の御所ともなったが、文献では、治安元年(1021)と、更に百年後の保安元年(1120)に焼亡記事が見える。
院政期の久安2年(1146)には、鳥羽上皇の命により新造され、造営には、後に大蔵卿となった長門守源師行(もろゆき)が当たっている。久寿2年(1155)には、後白河天皇が当所で即位し、保元2年(1157)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
保元の乱(1156)の際には、崇徳天皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地へ攻め込んだことはあまりにも有名である。
その後、平治の乱(1159)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残る。 |
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西洞院通、小川通、油小路通を横切り西に進む。玄関の横に大きな石を置いてある家がある。落ち着いた静かな雰囲気の通りが続く。 |
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堀川通を渡る。千本通に向かって歩く。姉小路通から少し離れた北側に二条陣屋がある。二重陣屋から姉小路通に戻り、千本通まで歩く。ここで姉小路通の散策は終わることとした。重みのある老舗の町家が印象深い通りであった。
<二條陣屋>(重要文化財小川家住宅)
豊臣秀吉に仕えていた伊予今治(愛媛県)7万石の城主となった小川土佐守祐忠(すけただ)は、関ヶ原の合戦に敗れて出家し、その長男千橘(せんきつ)が、萬屋平右衛門と名乗って、この地で米穀商、両替商及び木薬屋を業とした。この建物は、その住宅として寛文10年(1670)頃に創建されたものである。
当家は、二条城や京都所司代に仕候する中小の大名の陣屋としても利用されたので、隠し階段や武者隠しなど、大名の身辺警護のための特殊な構造、設備が施され、更に類焼防止の工夫も多い。建築様式は数寄屋式住宅で、極めて繊細優美であり、建築学的価値も非常に高いとされている。
昭和19年(1944)に数寄屋式住宅、陣屋式建築、防火建築の3点から、当時の国宝保存法に基づく国宝に指定され、昭和25年(1950)、文化財保護法により重要文化財に指定された。 |
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