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昭和15年(1940)7月、カウナスの日本領事館に、ポーランドからリトアニアに大勢のユダヤ人が逃げてきた。ナチスの迫害を逃れるため日本の通過ビザの発給を求めて来たのだ。
杉原千畝は、ビザ発給の許可を本国外務省に求めるが不許可だった。しかし、救いを求めてビザ発給を求める領事館前の人垣を見て決断した。本国の指示は不許可だったが、独断でビザを発給した。これによって救われたユダヤ人は6000人を超えるといわれている。発行されたビザは「命のビザ」と呼ばれた。
戦後、この杉原千畝の功績は大きく評価され、首都ヴィリニュスに、「スギハラ通り」や記念館がある。イスラエルにも「チウネ・スギハラ通り」がある。日本のシンドラーとも言われている。 |
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昭和15年(1940)夏、ソ連が在カウナス日本領事館を閉鎖した。その後、杉原千畝は最初にケーニヒスベルグ(現在のカリニングラード)へ赴任し、他国でも外交活動を続けた。最終勤務地はルーマニアであった。
<杉原千畝の言葉>
『私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。』
彼の出身地である岐阜県加茂郡八百津町には杉原千畝記念館が設置されている。 |
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